勝負強い打撃と奔放な性格で巨人のV9黄金期を彩った野球界一の人気者、王貞治との「ON砲」でプロ野球人気を確立し渡邉恒雄ら財界の支持も篤い「ミスタープロ野球」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
長嶋 茂雄
1936年 〜 年
70点※
長嶋茂雄と関連人物のエピソード
- スポーツ興行としての日本プロ野球の市場規模は約1200億円で中堅企業1社の売上ほどしかないが、巨人の読売を筆頭に新聞・テレビの発展期を支えた功労者で、漫画・アニメ・ゲーム・版権などエンタメ産業の主要コンテンツでもあり、都心と球場を結ぶ交通・都市開発や選手のCMなども考えると経済波及効果は計り知れない。さらに「一億総タレント化」で歌や踊りに耽る青少年が増加するなか、仕事も勉強も嫌いならスポーツを推奨すべきであり、スポーツ振興および大学進学・指導職・プロスポーツなどアスリートの受け皿の重要性は高まっている。巨人のお陰で「球界の盟主」となった渡邉恒雄は「たかが選手が」と侮蔑するが、野球界の主役はあくまで選手であり、作られた仕組みのなかで踊る駒という点ではサラリーマン経営者も変わらない。さて米国MLBの模倣に始まった日本プロ野球は、甲子園・東京六大学野球の後塵を拝したが、V9巨人の圧倒的強さが人気を呼び読売らマスコミが長嶋茂雄・王貞治らキャラクターを囃し立てることで一大芸能産業となった。しかし1965年のドラフト制導入に伴う戦力均質化で魅力が薄れ、漫画・アニメの影響で野球はダサいイメージが浸透、文化のグローバル化が進むなかワールドカップが盛んで選手の国際移籍も活発なサッカーに人気を奪われた。しかし野茂秀雄とイチローが本場MLBで一流となり野球人気が回復、サラリーマン経営で融通の利かない日本プロ野球界も漸く世界に目を向け、選手の海外移籍基準緩和やWBC・オリンピックの国際大会参加などを恐る恐る打出している。また、「名球界」が老人クラブと化し長嶋茂雄を異常に持上げるテレビ番組が未だ後を絶たないなか、プロ野球OBの世代交代も重要課題である。が、名球界に辟易する正直者の野茂秀雄に球界復帰の目は無く、巨人出身の原辰則・中畑清・江川卓・桑田真澄・松井秀樹らは貫禄不足、巨人外の古田敦也・佐々木主浩・石井一久は喋れるが脇役止りで、2016年本命のはずだった清原和博が覚醒剤使用で逮捕され、頼みの綱のイチローは垢抜けせず説教臭い。
- 王貞治は東京本所のラーメン屋の生れで中華民国籍である。慶大野球部の兄に憧れ野球を始めた王貞治は荒川博に見出され早稲田実業高校へ進学、1年夏から4度の甲子園出場を果し2年春には3試合連続完封の活躍で優勝投手に輝いた。1959年スカウト垂涎の王貞治は破格の契約金と背番号1の鳴物入りで巨人に入団、開幕戦から野手でスタメン出場し「天覧試合」で長嶋茂雄とのアベック本塁打1号を記録したが成績は伸び悩んだ。1962年プロ4年目に臨んだ王貞治は荒川博打撃コーチとの猛特訓で「一本足打法」を会得し、いきなり本塁打王と打点王の二冠達成、以後引退まで19年連続で30本塁打以上を打ち続けた。王貞治は「酒・タバコ・女全部やめて」野球に打込み「天井から吊り下げた糸の先に付けた紙を、日本刀で切る」練習法は同僚を威圧、ライバルの野村克也も「王の素振りに比べれば私のそれなんて、遊びみたいなものだった」と驚嘆した。川上哲治のMLB流野球と練習熱心な「ON砲」に感化された巨人は常勝軍団となり1965年から9年連続日本一を達成(V9)、プロ野球人気を確立し「球界の盟主」に君臨した。1974年巨人はセリーグ10連覇を逃し長嶋茂雄は現役を退いたが、王貞治の打棒は衰えず1980年40歳まで現役を続け本塁打王15回(868本)・打点王13回(2170打点)・三冠王2回・シーズンMVP9回という超絶記録を打立てた。ハンク・アーロンのMLB本塁打記録756本を破った王貞治は日本プロ野球で初めて本場米国に認められ、「世界の王」は国民栄誉賞第1号に輝いた。現役引退後も王貞治は巨人に留まり助監督3年を経て監督を5年務めたが成績振るわず1988年電撃解任、長い浪人を経て1994年福岡ダイエーホークスの監督に招聘された。「人格者」の王貞治は粘り強く弱小ホークスを育成し1999年初の日本一達成、翌年の日本シリーズで長嶋巨人との「ON対決」を実現し、2006年WBC日本代表の初代監督を引受け世界一に輝いた。2005年ホークスはソフトバンク傘下へ移り大型補強で強豪チームへ変貌、2008年68歳の王貞治は監督を秋山幸二に譲り球団会長に就任した。
- 野茂英雄は大坂市港区出身、野球の名門校に落ちて無名の成城工業高校へ進み、甲子園出場を望めないなか剛速球を求め「トルネード投法」を磨いた。完全試合で注目された野茂英雄は新日鐵堺へ進み2年目の都市対抗野球でブレイク、同年ソウル五輪チームのエースに抜擢され銀メダルを獲得した。翌1989年のドラフト会議で野茂英雄は史上最多8球団から1位指名を受け近鉄に入団、いきなり投手四冠・新人王・沢村賞・シーズンMVPのタイトルを総舐めし、4年連続で最多勝・奪三振王の二冠を達成した。が、5年目に野茂英雄は右肩痛で戦線離脱し貧乏な近鉄は大幅減俸を強要、トルネード投法に難癖を付ける鈴木啓示監督への不満もあり野茂は退団に踏切ったが、他球団移籍不可の「任意引退」で報復された。「僕は、別にどうしてもメジャーでやりたかったわけじゃない。ただ、あの監督の下ではやれないと思った、それだけなんです」…1995年日本球界を追われた野茂英雄は、バッシングの嵐のなか団野村を頼りマイナー契約でドジャース入団、開幕直後にMLB昇格を果すと13勝・防御率2.54の好成績で奪三振王と新人王を獲得し「トルネード旋風」を巻起した。2年目も野茂英雄は初のノーヒットノーランに16勝・防御率3.19の大活躍、「NOMOマニア」は熱狂し日本のマスコミも掌返しで絶賛した。右肩痛で調子を落した野茂英雄はドジャースを解雇され複数球団を渡り歩いたが、2001年レッドソックスで2度目のノーヒットノーランを達成し奪三振王を獲得、ドジャースに復帰し2年連続16勝を挙げた。が、故障が再発した野茂英雄は又も解雇され長期リハビリ生活、2008年ロイヤルズで1000日ぶりの復帰マウンドを飾ったが、戦力外通告を受け現役続行を断念した。野茂英雄の生涯成績は日本で78勝・防御率3.15およびMLBで123勝・防御率4.24、捨身で海外移籍の絶壁を破り日本人メジャーリーガーのパイオニアとなった。日米通算201勝の野茂英雄は「名球会」に迎えられたが「何をするための組織なのか、ゴルフばかりでなく社会貢献を」と爆弾発言、33年も続いた金田正一の私物化は破られ名球界は社団法人へ改組された。
- イチロー(鈴木一朗)は愛知県出身、野球好きな父「チチロー」に小学3年生から英才教育を施され名門の愛工大名電高校野球部へ進み1年生でレギュラー獲得、2度の甲子園出場は初戦敗退に終ったが高校通算打率501を記録し、華奢な体格ながら1992年ドラフト4位でオリックスに滑込んだ。土井正三監督に「振り子打法」を否定されたがイチローは腐らず研鑽を積み仰木彬監督へ代わった3年目にブレイク、一番センターに定着するといきなり210安打・打率385でプロ野球記録を更新し打点王・盗塁王・シーズンMVPも獲得した。翌年の阪神・淡路大震災に奮起したオリックスはパリーグ2連覇を果し、3年連続で首位打者・シリーズMVPに輝いたイチローは「がんばろうKOBE」の象徴となった。7年連続首位打者を達成したイチローは任天堂傘下のマリナーズへ円満移籍、2001年MLBデビューを果すといきなり首位打者・盗塁王・新人王・シリーズMVPを獲得し、以後10年連続で200安打・20盗塁・ゴールドグラブ賞・オールスターゲーム出場(最初の3年間は最多得票)の偉業を果し、2004年には262安打で84年ぶりにジョージ・シスラーのMLB記録を更新、WBC日本代表の看板選手として2度の世界一に輝いた。イチローの広い守備範囲は背番号に因んで「エリア51」と恐れられ代名詞の「レーザービーム」はファンを魅了、起床から就寝まで同じ「ルーチン」で野球に打込む姿勢はサムライと讃えられた。さすがのイチローも歳には勝てず2012年トレードでヤンキースへ出されたが期待通りの成績を残し、2015年出場機会を求め42歳でマーリンズ移籍を選択した。米国でも超一流となったイチローは日本人のMLB移籍に大きく道を拓き、『ベースボール・アメリカ』の「2000年以降最高のMLB選手」でプホルス・バーランダー・Aロッドらを押えて断トツ1位に輝き「殿堂入りが確実な5人」にも選ばれている。2015年を終えイチローの通算成績はNLB1278安打・打率353・盗塁199およびMLB2935安打・打率314・盗塁498、日米通算安打は4213となりピート・ローズの世界記録4256は目前である。
長嶋茂雄と同じ時代の人物
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戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
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戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
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