勝負強い打撃と奔放な性格で巨人のV9黄金期を彩った野球界一の人気者、王貞治との「ON砲」でプロ野球人気を確立し渡邉恒雄ら財界の支持も篤い「ミスタープロ野球」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
長嶋 茂雄
1936年 〜 年
70点※
家系・子孫
- 長嶋茂雄は、千葉県印旛郡臼井町(現佐倉市)の農家で町役場に勤める長嶋利の二男二女の末子に生れ、地元の青年野球団「ハヤテ・クラブ」で野球を始め県立佐倉第一高等学校へ進学、野球部に入り2年秋から4番打者を担った。甲子園出場は果せなかったが、長嶋茂雄は南関東大会の熊谷高校戦で放った特大ホームラン(高校公式戦唯一)を注目され立教大学経済学部へ進学、当時プロ野球より人気が高い六大学野球のスターとなり鳴物入りで巨人に入団した。天性の打撃と明るいキャラクターで球界一の人気者となった長嶋茂雄は、東京オリンピックでコンパニオンをしていた西村亜希子に一目惚れで結婚し二男二女をもうけた。長男の長嶋一茂は、長嶋茂雄と同じ立教大学で2季連続ベストナインに選ばれ(父は5季連続)ドラフト1位でヤクルト入団、「ミスター二世」と騒がれたが芽が出ず野村克也監督を逆恨みした末に長嶋茂雄監督の巨人へ移された。1996年30歳で現役を終えた長嶋一茂は個人事務所「ナガシマ企画」を開設しタレントへ転身、明石家さんまらにチヤホヤされスポーツ番組や映画に出演したが「長嶋茂雄の子」というだけの存在は次第に忘れられた。2005年長嶋一茂は渡邉恒雄(長嶋茂雄のパトロン)に拾われ「読売新聞グループ本社社長室付スポーツアドバイザー並びに巨人球団代表特別補佐」なる仰々しい役職を与えられたが、何も出来ないまま更なる名誉職へ退けられた。次女の長嶋三奈は、日本大学からテレビ朝日スポーツ局記者となり『熱闘甲子園』で人気を博し、母の死に伴い長嶋茂雄の個人事務所「オフィスエヌ」の代表取締役を引継ぎ父の闘病生活を支えた。スネカジリ専門の長嶋一茂は不幸にも同類の銀座ホステス(猪野仁子)と結婚、長嶋家で孤立するなか2009年父の所蔵品を無断売却し、オフィスエヌの期限切れを狙い「長嶋茂雄」の登録商標を奪取、長嶋三奈との骨肉の争いが表面化した。長嶋茂雄は「長嶋三奈サイド」で和解を促すがドラ息子の暴走は収まらない。なお、次男の長嶋正興は長嶋茂雄の枠を超えるべくレーシングドライバーとなったが、経済的自立は疑わしい。
長嶋茂雄と同じ時代の人物
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戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
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戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
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