陸軍長州閥の宇垣一成に属し中立・穏健派と目され首相に上り詰めたが何も出来ず退陣、東條英機に乗換えて名誉職を与えられ、東京裁判で謎の不起訴となった「処世の将軍」
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阿部 信行
1875年 〜 1953年
20点※
阿部信行と関連人物のエピソード
- 阿部信行は、金沢から上京して陸士・陸大へ進み、長州閥「宇垣一成の寵児」として軍務局長・陸軍次官・陸相(宇垣陸相の臨時代理)と累進したが、実戦経験も金鵄勲章も無い唯一の大将は「戦わぬ将軍」「処世の将軍」と揶揄された。長州閥打倒で結束した永田鉄山ら一夕会・統制派が実権を掌握すると、阿部信行は「上りポスト」の軍事参議官に回され、二・二六事件に伴い予備役編入、頼みの宇垣一成内閣も石原莞爾らの妨害で流産した。が、平沼騏一郎内閣が独ソ不可侵条約で倒れると、統制派にも皇道派にも属さない阿部信行に組閣の大命が降った。阿部信行は、陸軍穏健派の宇垣一成の後継者であると同時に、西園寺公望に代わり天皇側近の中心になりつつあった木戸幸一の縁戚で、海軍良識派の井上成美の義兄でもあった。阿部信行内閣の組閣に際し、強硬派の板垣征四郎が陸相を降ろされ昭和天皇の意を受けた穏健派の畑俊六が就任、三国同盟反対を譲らない米内光政海相も降板した。後任海相は同じ良識派の山本五十六が有力だったが、テロに遭う恐れがあるので海に出そうということで連合艦隊司令長官に転出、良識派に連なる吉田善吾が海相に就いた。さて、発足直後に第二次世界大戦の勃発に遭遇した阿部信行内閣は、複雑怪奇な日独伊三国同盟を棚上げし日中戦争処理に全力を挙げるも和平工作に失敗、流通促進のための米価引上げが物価高騰を招き、あまりの不人気に陸軍も倒閣に動き僅か4ヶ月余で総辞職に追込まれた。阿部信行は終戦直後、原田熊雄に「今日のように、まるで二つの国、陸軍という国とそれ以外の国とがあるようなことでは、到底政治がうまくいくわけはない。自分も陸軍出身で前々から気になってはいたがこれほど深刻とは思っていなかった。認識不足を恥じざるをえない」と弁明している。退陣後の阿部信行は、宇垣一成から東條英機に乗換え組閣を支援、翼賛政治会会長や貴族院議員の名誉職を与えられ、米内光政・宇垣らの東條内閣打倒の動きには加担しなかった。最後の朝鮮総督として終戦を迎えた阿部信行は、早々に米軍の護送で内地に戻り、A級戦犯容疑で逮捕されたが開廷直前に釈放された。経緯は今も謎である。
- 明治維新後の軍部は、西郷隆盛の薩摩閥と大村益次郎の長州閥が勢力を二分したが、西南戦争で西郷隆盛と共に桐野利秋・村田新八・篠原国幹ら薩摩閥を担うべき人材が戦死、大山巌や西郷従道は残ったものの長州閥が俄然優勢となった。長州藩の木戸孝允・大村益次郎・伊藤博文は文民統治を重視したが、運よく奇兵隊幹部から長州軍人のトップに納まった山縣有朋は木戸の死でタガが外れ、長州閥で陸軍を牛耳り政治に乗出して軍拡を推進、伊藤の没後は直系の桂太郎・寺内正毅・田中義一を首相に据え政府に君臨した。外征志向の山縣有朋は強大な軍隊を志し、プロシア流の皇帝直属軍すなわち「天皇の統帥権を大義名分とする自律的な軍隊」の建設に邁進、軍事予算の獲得と外征に励みつつ軍部大臣現役武官制などで文民統治を排除した。「金があれば早稲田の杜を水底に沈めたい」ほど政党嫌いの山縣有朋は自由民権運動の弾圧に執念を燃やしたが、これも「国民の軍隊」を作らせないための自己防衛であった。大村益次郎の遺志を継いだ山田顕義と三好重臣・鳥尾小弥太・三浦梧楼・谷干城らはフランス流の市民軍を構想し「外征を前提とした軍拡は国家財政の重荷となりむしろ国力を弱める」と正論を説いたが、山縣有朋は官有物払下げ事件に乗じ山田一派を追放、思惑どおり政府や国民の干渉を受けない自律的な軍隊を作り上げた。山縣有朋は死ぬまで極端な長州優遇人事を貫いたが、優秀な野津道貫・児玉源太郎らが死ぬと人材が枯渇、山縣の死の前年に「バーデン・バーデン密約」を交し長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機・石原莞爾ら中堅幕僚「一夕会」が下克上で陸軍を乗取り満州事変・日中戦争・仏印進駐・対米開戦へと暴走した。一方、当初陸軍の一部だった海軍では、薩摩人の山本権兵衛が西郷従道を擁して大胆な組織・人事改革を行い日清・日露戦争の活躍で陸軍から完全独立、出身地に拘らない人材登用で加藤友三郎(広島)・斎藤実(仙台)・岡田啓介(福井)・米内光政(岩手)・山本五十六(越後長岡)・井上成美(仙台)・鈴木貫太郎(下総関宿)らを輩出したが、後継指名した伏見宮博恭王が艦隊派首領となり対米開戦を主導した。
- 1921年、陸軍士官学校16期のエリート永田鉄山・小畑敏四郎・岡村寧次がドイツ南部の保養地バーデン・バーデンで落合い陸軍長州閥の打倒および「国家総動員体制」の確立へ向け会盟、ここに陸軍の下克上が始まった(バーデン・バーデン密約)。ドイツ駐在の東條英機(17期)も駆付け永田鉄山の腹心となった。盟主の永田鉄山は信州上諏訪出身、陸軍幼年学校から陸軍大学までほぼ主席で通し人心掌握も上手く「陸軍の至宝」と賞された逸材で、第一次大戦視察のためドイツ周辺諸国に6年間滞在し「総力戦時代の到来」に危機感を抱き国家総動員体制を提唱した。対する陸軍長州閥は、創始者の山縣有朋を1922年に喪うも田中義一(長州)・白川義則(愛媛)・宇垣一成(岡山)が系譜を継ぎ勢力を保っていた。大正デモクラシー=軍人蔑視、山梨・宇垣軍縮への不満渦巻く陸軍各所で中堅将校の「勉強会」が萌芽するなか、永田鉄山らは河本大作(15期)・板垣征四郎・土肥原賢二(16期)・山下奉文(18期)ら同志20人と渋谷「二葉亭」で会合を重ね(二葉会)、石原莞爾(21期)・鈴木貞一(22期)ら年少組の「木曜会」と合体し「一夕会」を結成、武藤章・田中新一(25期)・牟田口廉也(29期)らも加わった。僅か40人ほどの一夕会だが、このあと陸軍を動かす面々が悉く名を連ね、第一回会合では陸軍人事の刷新、荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎の非長州閥三将官の擁立、満州問題の武力解決、国家総動員体制の確立の大方針を決め、陸軍中央の重要ポスト掌握に向け策動を開始した。河本大作の「張作霖爆殺事件」は不拡大に終わったが、板垣征四郎・石原莞爾の「満州事変」は若槻禮次郞内閣の追認で拡大し満州国建国に結実、一夕会は「ソ連に勝つには今しかない」と説く小畑敏四郎ら皇道派(荒木貞夫の「皇軍」発言に因む)と総動員体制確立・中国問題解決を優先する永田鉄山ら統制派に分裂し、統制派が陸軍中央を制すと「永田鉄山斬殺事件」が起るが、皇道派は二・二六事件で自滅し、不拡大派の石原莞爾を退けた武藤章・田中新一・東條英機ら統制派が対外硬派の近衛文麿内閣を動かし中国侵攻(日中戦争)・国家総動員法を成就させた。
- 戦後教育は昭和史の本質たる軍事史を教えず、「一夕会」「統制派」を率いた永田鉄山さえあまり知られていないが、「陸軍の至宝」「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と称された逸材で「永田がいれば大東亜戦争は起きなかった」ともいわれる。陸幼・陸士(16期)・陸大を最優等で卒業した永田鉄山は、事務能力も抜群で陸軍の綱紀粛正・教育制度改革(軍隊教育令)を主導し一般学校の軍事教練(陸軍現役将校学校配属令)も創始、病弱で実戦経験は無いが、部隊に出れば謙虚・公正・合理性で「陸軍一の名連隊長」と慕われ、少壮から陸軍を背負うべき人材と輿望を集めた。第一次大戦前後の欧州情勢視察に任じた永田鉄山は、総力戦時代を痛感し「国家総動員」を提唱、同志のエリート将校を一夕会に組織化し、林銑十郎を陸相に担いで陸軍省枢要の軍務局長に就き長州閥から主導権を奪取した。永田鉄山は、国力の乏しい日本は総力戦に備え中国大陸の軍需資源を利用すべしと主張したが、非合法手段や派閥争いは認めず、十月事件では橋本欣五郎(23期)の極刑を主張し、石原莞爾(陸士21期)らの満州事変では暴走抑止に努めた。一夕会系は「陸軍三長官」を独占したが、統制を重んじる永田鉄山(統制派)と実力行使も辞さない「皇統派」の内部対立が発生、真崎甚三郎の教育総監更迭を巡り抗争が激化するなか皇統派の相沢三郎中佐が永田鉄山斬殺事件を起し、勢いづいた皇統派は巻返しを図り青年将校グループが二・二六事件を引起した。皇統派の自滅で陸軍を掌握した統制派の武藤章・田中新一(25期)・東條英機(17期)らは、永田鉄山の遺志を継いで満州から中国へ侵出し国家総動員体制を実現させたが、強引な手段で泥沼の日中戦争を引起し中国不戦を説く石原莞爾を追放、仲間割れの度に過激へ傾き、近衛文麿・松岡洋右ら反欧主義者と組んで日本を亡国の対米開戦へと導いた。永田鉄山個人は日本型官僚組織・部課長制組織史上の傑物で独断専行の抑止役でもあり、存命なら昭和史が変わった蓋然性は高いが、結果が敗戦ゆえに「陸軍暴走」の先駆者となり、故郷の上諏訪でも記憶されず高島公園の胸像に名残を留めるのみである。
- 石原莞爾は、陸士(21期)・陸大で奇才を現し「陸軍随一の天才」と称されたが、平然と教官を侮辱する異端児で哲学・宗教に傾倒し、写生の授業で己の男根を模写し退学になりかけたこともあった。田中智学の「国柱会」(日蓮宗)に帰依する石原莞爾は宗教的カリスマを帯び、服部卓四郎・辻政信・花谷正ら後輩の崇敬対象だった(なお国柱会には近衛文麿の父篤麿や宮沢賢治も加盟)。鈴木貞一(22期)らと「木曜会」を興した石原莞爾は永田鉄山(16期)の「一夕会」に合流し「満蒙領有方針」を牽引、関東軍参謀に就くと永田の制止を振切り板垣征四郎(16期)と共に満州事変を決行した。南二郎のアジア主義に薫陶された石原莞爾は中国独立運動のシンパで、日満蒙の平和的連携による資源と市場の獲得を追求(王道楽土)、「第一次世界大戦後に世界平和は回復されたが、列強はいずれまた世界戦争を始める。いろんな組合せで戦っていくうちに、最後にはアメリカ、ソ連、日本が残る。日本は戦いを避けて国力と戦力を整えつつ待ちの姿勢を貫くことが肝心で、そうすればいずれアメリカがソ連を破り、最終戦争で世界の覇権を賭けてアメリカと対決することとなろう」という「世界最終戦争論」を唱え、日本は「無主の地」満州を領有して国力不足を補い日中鮮満蒙の「五族協和」で総力戦に備えるべしとした。統制派・皇道派に属さず「満州派」を自称する石原莞爾は永田鉄山斬殺事件に伴い陸軍中央の指導的地位に就任、二・二六事件が起ると戒厳司令部参謀に就き皇道派を断罪し壊滅させた。反乱将校を扇動した荒木貞夫(陸士9期)に対し石原莞爾は「バカ!おまえみたいなバカな大将がいるからこんなことになるんだ」と怒鳴りつけ、軍規違反と怒る荒木に「反乱が起っていて、どこに軍規があるんだ?」と言返したという。盧溝橋事件が起ると、日中戦争泥沼化を予期する石原莞爾は停戦講和に奔走したが、武藤章・田中新一(25期)・東條英機(16期)ら統制派の「中国一激論」「華北分離工作」が優勢で近衛文麿内閣の和解拒否により不拡大派は失脚、関東軍参謀副長へ左遷された石原は参謀長の東條英機と衝突し、東條が陸相に就くと完全に政治生命を絶たれた。
- 奇行が多いが成績抜群の石原莞爾は陸士時代から「陸軍随一の天才」と称され、永田鉄山の「一夕会」に加盟し「満蒙領有方針」の急先鋒となった。関東軍参謀に就いた石原莞爾は、永田鉄山ら陸軍中央の慎重論を無視し板垣征四郎と共に柳条湖事件を決行、若槻禮次郞内閣の追認を得て満蒙を武力制圧し、第一次上海事変、満州国建国までを主導した。一夕会が分裂し皇統派が永田鉄山斬殺事件を起すと無党派の石原莞爾が陸軍中央の指導的地位に就き、二・二六事件では戒厳司令部参謀として反乱将校の断罪と皇統派の粛清を主導、参謀本部に作戦部を設置し権限を集中した。日中戦争が勃発すると、中国革命運動のシンパで「五族協和」を志す石原莞爾はアメリカとの最終戦争に備えるべく(世界最終戦争論)日中講和に奔走したが、強硬に中国侵出(華北分離工作)を主張する武藤章・田中新一・東條英機ら統制派と対立、第一次近衛文麿内閣が講和を蹴り日中戦争拡大方針を採ったため失脚した。不拡大派は陸軍中央から一掃され、石原莞爾は関東軍参謀副長へ左遷、犬猿の仲の東條英機が陸相に就くと政治生命を絶たれた。鮮やかな作戦指揮で寡兵をもって満蒙を席巻し、陸軍・政府・マスコミへの根回しで満州事変を成功させた石原莞爾の奇才は疑うべくもないが、結果として日本が戦争に負けため評価は実に複雑である。石原莞爾が独断専行で関東軍を動かしたことは重大な軍法違反であり、上役の荒木貞夫や東條英機をバカ呼ばわりする傲慢さも陸軍の集団暴走に先鞭を付けた。また十月事件を起した橋本欣五郎は石原莞爾の親友で処罰に反対している。が、植民地収奪競争が熾烈な当時の世界情勢において「無主の地」満州は共産ソ連の格好の標的であり、中国が崩壊するなか朝鮮の防衛上譲れない地勢を占めていた。アジア諸国が結束し西洋列強の収奪を防ぐという石原莞爾の戦略も至極妥当なもので、国土と資源の乏しい日本は大陸に出る他なく、満州事変後の軍需バブルで逸早く世界不況を脱した現実もある。石原莞爾の戦略に従い華北を攻めず満州に留まっていれば、日中戦争泥沼化も英米との衝突も無く日本は朝鮮・満蒙を維持しアジアの盟主になった蓋然性が高い。
- 東條英機と石原莞爾の犬猿の仲は有名だ。石原莞爾は、永田鉄山より5期・東條英機より4期下の陸士21期のエリートで少壮の頃から天才と称され、その世代の「木曜会」では鈴木貞一と共に指導的立場にあり、木曜会は永田らの「二葉会」に合流して「一夕会」となった。木曜会に目付役として参加した東條英機は石原莞爾らを指導し、共に「満蒙領有方針」の策定などを手掛けた。石原莞爾は陸軍の花形である作戦畑に進んで満州事変で名を轟かせ、永田鉄山の横死後は作戦部長に就いて陸軍中央を取仕切った。一方の東條英機は、永田鉄山・統制派のために奔命するも作戦畑には進めず、皇道派に恨まれて日陰のポストを転々とさせられた。才気煥発で自負心も強い石原莞爾にすれば東條英機など取るに足らない先輩であり、劣等視された東條は石原を敵視し、石原が日中戦争不拡大を唱えると拡大派の武藤章を支持し石原一派を陸軍中央から追出した。関東軍参謀副長に左遷された石原莞爾は参謀長の東條英機を公然と無能呼ばわりし聞こえよがしに「東條上等兵」「憲兵隊しか使えない女々しいやつ」などと挑発、怒り心頭の東條は石原を閑職の舞鶴要塞司令官に飛ばし、間もなく予備役編入に追込んで報復を果した。軍務を離れた石原莞爾は言論・教育活動などに従事したが、東條英機は得意の憲兵攻撃で執拗に石原を監視した。そして日本の敗戦が決定的となるなか、石原莞爾に師事する柔術家の牛島辰熊と津野田知重少佐による東條英機首相暗殺計画が発覚(なお、空手の大山倍達や極道の町井久之も石原莞爾に師事)、両名の献策書の末尾には「斬るに賛成」との石原の朱筆があった。東京裁判の証人尋問で東條英機との確執を訊かれた石原莞爾は「私には一貫した主義主張があるが、彼にはなかったのではないか。此れでは反目し合う事など有るわけがない。彼は一貫した信念がなく右顧左眄して要らぬ猜疑心を持つから、戦局の対応も適宜でなかっただろう。」と東條の無能を扱下ろしたが、戦勝国が裁く横暴を論難し「略奪的な帝国主義を教えたのはアメリカ等だ、戦争責任なら満州事変を起した自分と鎖国を破ったペリーを裁け」と気炎を上げた。
- 東條英機は陸軍中将の父に倣い陸軍幼年学校・陸士(17期)・陸大へ進み純粋培養の陸軍官僚に成長、ドイツ留学中に長州閥打倒・国家総動員を提唱する永田鉄山(陸士16期)に私淑し「バーデン・バーデン密約」に加盟、陸大教官に就くと入試選考工作で長州系人材の排除に努めた。東條英機は永田鉄山の腹心として「二葉会」「木曜会」「一夕会」で重きを為したが、能力凡庸で陸軍の花形部署には就けず、一夕会が永田鉄山(統制派)と小畑敏四郎(皇統派)の対立で分裂すると、永田信者の東條は皇道派の目の敵にされ非主流ポストをたらい回しにされた。林銑十郎を陸相に担いだ永田鉄山が枢要の陸軍省軍務局長に座り統制派が優勢となったが、東條英機の復権は成らず、「もう少し待て、必ず何とかするから」と慰めた永田が皇道派のテロに斃れると、東條は満州の関東憲兵隊司令官に飛ばされ予備役編入を待つ身となった。が、直後に驚天動地の二・二六事件が発生、一夕会系だが無党派の石原莞爾(21期)は寺内寿一(長州閥の寺内正毅の息子)を陸相に担ぎ軍規粛清を掲げ皇統派を断罪、真崎甚三郎・荒木貞夫ら七大将を予備役に追込み将佐官を一掃した。陸軍中央の主導権は石原莞爾が握ったが、皇統派を葬った武藤章・田中新一(25期)ら統制派が圧倒的優勢となり最年長の東條英機も関東軍参謀長に栄転、東條は日産の鮎川義介と満鉄の松岡洋右と結んで陸軍の満州国支配を確立し、ソ満国境の武力衝突事件で暴走、日中戦争が始まると察哈爾方面を率い独断で戦線を拡大し名を上げた。一方、陸軍中央は日中戦争不拡大を説く石原莞爾と「華北分離」を説く武藤章ら統制派の対立で大混乱に陥り、石原が板垣征四郎を陸相に担ぐと統制派は東條英機を陸軍次官に擁立、東條は多田駿参謀次長と衝突し共に更迭されたが、第一次近衛文麿内閣の日中戦争拡大政策で統制派が勝利し石原一派を追放した。東條英機は新設の陸軍航空総監に左遷されたが、停戦講和へ傾いた武藤章を田中新一ら強硬派が圧倒し東條を陸相に擁立、東條陸相は田中の戦略に従い日独伊三国同盟・関特習・南部仏印へと第二次・第三次近衛文麿内閣を牽引し、後継首相として対米開戦を決断した。
- 陰険で執念深い東條英機は、憲兵を駆使して容赦なく反対者を粛清し徹底的な言論統制を敷いた。皇統派に憎まれ関東軍の憲兵隊司令官に左遷された東條英機は自軍の共産分子摘発に精を出し、関東軍参謀長に栄転すると憲兵を私用に使い始め「憲兵のドン」と恐れられた。関東大震災時に大杉栄一家殺害事件を起した憲兵大尉の甘粕正彦は、陸士恩師の東條英機の影響下にあり、出獄後は満州で陸軍の謀略に挺身し「夜の帝王」と恐れられた。さて、陸相・首相に上り詰めた東條英機は、身の回りの些事にも憲兵を使って目を光らせ陰険な報復を繰返した。東條英機は、宿敵の石原莞爾を予備役に追込んだ後も憲兵を貼付けて執拗に動静を探り、統制派の武藤章が対米講和へ傾くと反東條内閣の動きを憲兵情報で捉え前線のスマトラ島へ放逐、対米開戦を主導した田中新一まで反抗を理由にビルマ方面軍へ追放した。東條英機の魔手は陸軍外へも及び、東條の独裁を糾弾し内閣打倒を企てた中野正剛を憲兵隊の監禁で自殺へ追込み、東條批判をした言論人の松前重義や海軍の肩を持った毎日新聞の新名丈夫を徴兵した陰謀も明らかになっている。カタブツの東條英機は部下や身内の醜聞にも目を光らせた。あるとき、東條英機は甥の山田玉哉陸軍少佐を首相官邸に呼びつけ、いきなり「このバカ者!」と怒鳴りポカポカと殴りつけた。意味不明の山田が問い質すと「貴様は女の手を握ったろう!」と言う。東條英機の妹(次枝)宅を訪問したさい酒に酔って若い女中の手を握った一件に思い当たった山田が「アレか」と呟くと、東條は「アレとは何だ!」と激高しまた殴ったという。首相が官邸で陸軍少佐をしばきあげるという前代未聞の珍事であったが、粘着質の東條英機は山田を赦さず最前線のサイパン送りにすべく画策したという。
- 戦争終結が決定的となると、阿南惟幾(最後の陸相)・杉山元(対米開戦時の参謀総長)・橋田邦彦(東條英機内閣の文相)・大西瀧治郎(山本五十六の腹心で最初の特攻隊の指揮官)など、要人が次々と自殺した。日本に乗込んだマッカーサーのGHQは、A級戦犯指定者を日本政府に通告し次々と逮捕したが、絶対死刑にしたい東條英機には自殺の間を与えず通告無く米軍憲兵を差向けた。逮捕を予期していた東條英機はすぐさま拳銃自殺を図ったが、アメリカ軍に救助され軽傷で済んだ。医師に相談して心臓部分に丸印をつけてもらっていたが、左利きのため急所を外したのだという。自作の『戦陣訓』で「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」と説いた東條英機の自殺失敗と逮捕は、多くの国民を失望させた。なお、東條英機が『戦陣訓』を国民に配布したさい石原莞爾は「バカバカしい。こんなものは読まなくてもいい」と公言、ますます東條に憎まれ陸軍追放の決定打になったという。
- 傲岸不遜を自称する武藤章は、陸士同期(25期)の田中新一と共に永田鉄山(16期)没後の陸軍「統制派」を指揮した。盧溝橋事件が起ると、参謀本部作戦課長の武藤章は「華北分離工作」を起草し強硬に戦線拡大を主張、日中和解に奔走する上司(作戦部長)の石原莞爾(21期)を「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と愚弄し、統制派最年長の東條英機(17期)を抱込んで石原一派を失脚へ追込み陸軍中央の主導権を奪った。が、一撃を加えれば蒋介石政権は屈服し日中戦争は早期に片付くという武藤章の「中国一激論」は忽ち行詰り石原莞爾の予期どおり日中戦争は泥沼化、武藤は潔く停戦講和へ転じトラウトマン工作などに加担したが第一次近衛文麿内閣の強硬姿勢を覆せず、陸軍では田中新一・東條英機らの強硬論が支配的となった。武藤章は南進政策の容認などで田中新一と妥協しつつ日中講和と対米開戦回避に努めたが形勢逆転はならず、太平洋戦争の戦局が悪化すると軍務局長の要職にあって戦争終結を唱え岡田啓介らの東條英機内閣打倒の策動に加担したが、東條の憲兵に探知され近衛師団長として前線のスマトラ島へ送られ、第14(フィリピン)方面軍司令官の山下奉文の招聘で参謀長に就任し同地で終戦を迎えた。そして東京裁判、極刑はないとみられた武藤章に無念の絞首刑判決が言渡された。判決後、東條英機は武藤章に「巻き添えにしてすまない。君が死刑になるとは思わなかった」と謝ったという。敵軍の矢面に立つ前線指揮官は報復の標的にされやすく、山下奉文は終戦早々にフィリピンで処刑され、板垣征四郎・木村兵太郎・土肥原賢二・松井石根も死刑判決を受けている。また、陸軍人の事跡を虚実取混ぜてGHQに注進した「裏切り者」田中隆吉の証言が武藤章を極刑に追込んだともいわれる。武藤章は笹川良一に「私が万一にも絞首刑になったら、田中の体に取り憑いて狂い死にさせてやる」と語ったが、田中隆吉は晩年「武藤の幽霊が現れる」と精神を病み何度か自殺未遂を起している。
- 田中新一は最強硬路線を牽引した「イケイケ陸軍人」で対米開戦のキーマン、永田鉄山(陸士16期)の後継者を自認し陸士同期(25期)の武藤章と共に「統制派」を指揮した。関東軍参謀から陸軍省軍務局軍事課長に就いた田中新一は、武藤章参謀本部作戦課長の「華北分離工作」を支持し石原莞爾(21期)ら不拡大派を退け日中戦争を拡大させた。日中戦争泥沼化に連れ武藤章軍務局長は日中講和・対米英妥協へ転じたが、陸軍では田中新一参謀本部第1部長らの強硬論が支配的となり、東條英機陸相を動かし松岡洋右外相と提携して近衛文麿内閣を日独伊三国同盟・関東軍特種演習・南部仏印進駐へと誘導、永田鉄山以来の宿志「国家総動員体制」も実現させた。陸軍の主導権は永田鉄山・石原莞爾・武藤章・田中新一へと変遷したが「議論は過激へ流れる」典型例であった。陸軍は一枚岩で亡国の対米開戦へ暴走したわけではなく、生産力が懸絶するアメリカに勝てないことは自明であり、東條英機さえ土壇場まで回避策を模索した。南部仏印進駐で開戦を決意したアメリカは石油禁輸に踏切り、日本は到底呑めない中国・満州からの完全撤退を突き付けられたが、それまでは交渉の余地は残されていた。そうしたなか田中新一は、武藤章らの慎重論を抑えて南進政策を強行し早々に対米英妥協を放棄、ナチス・ドイツとの同盟で対決姿勢を鮮明にし、戦争ありきの強硬策を推し進め東條英機内閣に対米開戦を決断させた。さらに田中新一は正気の沙汰とは思えない米ソ二正面作戦を画策、独ソ戦が始まると松岡洋右と共にソ連挟撃論を唱え関東軍に大兵力を集中させたが(関東軍特種演習)、間もなく南進一色となり対ソ開戦は回避された。太平洋戦争の帰趨が決しても「負けを認めない」田中新一は強硬姿勢を貫き、ガダルカナル島撤退に猛反発して佐藤賢了軍務局長と乱闘事件を起し東條英機首相を面罵、前線のビルマ方面軍に飛ばされインパール作戦に関与したが、終戦直前に予備役編入となり無事に生還した。東京裁判では、天皇の温存を図るGHQが統帥権(参謀本部)関連の訴因を外したことが幸いし、田中新一は起訴を免れ、1976年まで83歳の長寿を保った。
- 海軍青年将校が起した五・一五事件の収拾を図るべくテロに斃れた犬養毅に代わり海軍良識派の斎藤実が74歳にして組閣した。首相候補には平沼騏一郎と山本権兵衛の名も挙がったが、右翼の平沼は昭和天皇の「ファッショに近いものは不可」との意思により外され、山本は80歳の高齢であることと東郷平八郎元帥ら海軍艦隊派の反対により三度目の組閣を阻まれた。高まる軍部の専横を抑えるため、民政党と政友会からも閣僚を迎え入れた「挙国一致内閣」であった。なお斎藤実内閣の発足に伴い、長州閥打倒を掲げる永田鉄山ら「一夕会」が結党以来擁立に動いてきた荒木貞夫が陸相・真崎甚三郎が参謀次長(参謀総長は飾雛の閑院宮載仁親王)・林銑十郎が教育総監に就任し陸軍三長官の揃い踏みとなった。
- 林銑十郎は、永田鉄山・石原莞爾ら一夕会系陸軍幕僚に担がれ陸相・首相に上り詰めた。加賀藩出身の林銑十郎は陸士・陸大と進むも長州閥が牛耳る陸軍で傍流を歩んだ。が、長州閥打倒で結束した「一夕会」の少壮幕僚は担ぐべき上官を求め、上原勇作の佐賀閥に連なる真崎甚三郎・荒木貞夫・林銑十郎の三将官に白羽の矢を立てた。ここから林銑十郎の出世が始まり真崎甚三郎の推薦で陸軍大学校長に栄進、近衛師団長を経て朝鮮軍司令官となった。関東軍の石原莞爾らが柳条湖事件を起すと、朝鮮軍司令官の林銑十郎は神田正種参謀の進言に従い軍令を無視して派兵を断行、若槻禮次郞内閣の事後承諾を得て満州事変成功の立役者となった。「越境将軍」林銑十郎は「陸軍三長官」の教育総監へ栄転し、病気降板の荒木貞夫に代わり陸相に就任した。中国先攻を説く永田鉄山(統制派)と対ソ開戦を譲らない小畑敏四郎(皇道派)が対立し一夕会が分裂を起すと、陸相の林銑十郎は皇統派の真崎甚三郎と袂を別ち地方に飛ばされていた永田を陸軍省枢要の軍務局長に登用した。なお、「皇道派」は荒木貞夫・真崎甚三郎の両大将を担ぎ国家改造を期す急進改革派で、北一輝ら右翼の影響を受け武装クーデターも辞さない青年将校グループも巻込んだ。皇統派に対し下級将校の跳梁を認めない永田鉄山と腹心の東條英機・武藤章・田中新一らは「統制派」と称され、エリート幕僚が陸軍中央を掌握し全陸軍の威力をもって軍事政権樹立を図ろうとした。林銑十郎陸相を担ぎ人事権を握った永田鉄山は小畑敏四郎はじめ皇道派・対ソ開戦派を一掃し統制派が陸軍省・参謀本部・教育総監府を掌握、陸軍中央は永田の「中国一撃論」「国家総動員」で一枚岩となった。巻返しを図る皇統派は永田鉄山を斬殺し(相沢事件)二・二六事件に関与したが昭和天皇の逆鱗に触れ自滅、両派に属さず二・二六事件を断固処断した石原莞爾が陸軍の主導権を握り「猫にも虎にもなる(自由に操れる)」林銑十郎を首相に擁立した。カイゼル髭を靡かせ「祭政一致」を掲げた林銑十郎首相だが、「食い逃げ解散」失敗で陸軍にも見放され「何もせんじゅうろう内閣」は僅か4ヶ月で退陣した。
- 軍部の暴走抑止に努める西園寺公望・牧野伸顕・鈴木貫太郎・斎藤実・高橋是清・木戸幸一・一木喜徳郎ら天皇側近の重臣グループは「君側の奸」と敵視された。陸軍統制派と平沼騏一郎ら右翼は一木喜徳郎・美濃部達吉の「天皇機関説」を槍玉にあげ重臣の排撃を図り、真崎甚三郎・荒木貞夫ら陸軍皇道派は「国体明徴運動」を推進し「日本は万世一系の天皇が統治し給う神国である」という国家観を喧伝、マスコミも便乗したため全体主義・軍国主義が支配的となり言論封殺やテロを容認する空気が醸成された。国体問題が政局化するに至り統制派首領の永田鉄山などは慎重論へ転じたが、岡田啓介内閣の「国体明徴声明」で決着がついた。五・一五事件に怯えた西園寺公望・牧野伸顕は既に別荘に引籠り、一木喜徳郎は右翼の襲撃を受け隠退、過激派の敵意は猶も軍部に抵抗を続ける鈴木貫太郎や高橋是清へ向けられた。なお陸軍では、統制派に締出された皇統派の永田鉄山攻撃が加熱し相沢三郎中佐が永田斬殺事件を起した。皇統派は勢いを増し隊附青年将校グループによる二・二六事件が勃発、斎藤実内大臣・高橋是清蔵相・渡辺錠太郎陸軍教育総監が殺害され、テロを恐れる重臣は完全に腰砕けとなり抑え役を放棄した。リーダーの西園寺公望は首相指名権を重臣会議に譲り隠退、後継者と頼む近衛文麿の内閣が日独伊三国同盟を締結した直後に「これで日本は滅びるだろう。これでお前たちは畳の上では死ねないことになったよ。その覚悟を今からしておけよ」と側近に語り死去した。東京裁判で終身禁固に処された右翼の平沼騏一郎は巣鴨拘置所で重光葵に「日本が今日の様になったのは、大半西園寺公の責任である。老公の怠け心が、遂に少数の財閥の跋扈を来し、政党の暴走を生んだ。これを矯正せんとした勢力は、皆退けられた」と語ったという。終戦まで内大臣に留まった木戸幸一(木戸孝允の継孫)は主戦派の東條英機を首相指名する愚を犯したが、二・二六事件で一命を取り留めた海軍人の岡田啓介・鈴木貫太郎は重臣会議に加わった米内光政と共に東條英機内閣を倒し、鈴木内閣で昭和天皇の「聖断」を引出し第二次大戦の幕引き役を果した。
- 満州事変首謀者の石原莞爾が内地へ召還された後も関東軍の独断専行は収まらず、「他国の領土を占拠して満州国を建設することは、民族意識の上からみて穏当ではない。それは四億の中国人を敵に廻し日支親善に超え難い溝を造るものだ。決して日本の得策とならない。だから満州は成るべく早く中国人の手に渡すべきだ」と考える陸軍省の永田鉄山軍務局長は林銑十郎陸相を伴い満州へ渡った。「満州国軍の育成」に奔走する佐々木到一などは酒席で永田鉄山の弱腰を詰り、陸相の渡満中にも関わらず関東軍は中央の命令を無視し進軍を続けたが、永田は支那駐屯軍司令官の梅津美治郎に交渉を促し国民革命軍から「河北省内の中国軍の撤退、排日活動の禁止」などの合意を引出し(梅津・何応欽協定)一応の成果をみて東京へ帰還した。
- 北一輝・西田税の「国家改造論」を信奉する皇道派の相沢三郎中佐(陸士22期の剣豪)が、任地の広島県福山から鉄路上京して陸軍省軍務局長室に乗込み統制派首領の永田鉄山少将を斬殺した(没後中将へ特進)。永田鉄山は軍務局長の要職にあって陸軍中央から統制を乱す皇道派を締出す動きを主導しており、皇道派重鎮の真崎甚三郎大将の教育総監更迭問題を巡り両派の対立は沸点に達していた。教育総監更迭は林銑十郎陸相の肝煎りで永田鉄山は抑え役だったのだが、真崎甚三郎は永田を「恩知らず」と恨み陸軍人事を専断する「統帥権干犯」と糾弾し「三月事件」「陸軍士官学校事件」関与の濡れ衣を着せ攻撃、永田を犯罪者と信じ込んだ相沢三郎が暴挙に及んだ。罪の意識が無い相沢三郎は転任地の台湾へ向かおうとしたが逮捕されて軍法会議で死刑判決を受け、執行が迫ると暴れて手が付けられなくなり「真崎にそそのかされた」と恨み節を残したが、最期は従容と銃殺刑に服したという。永田鉄山斬殺事件後、真崎甚三郎・荒木貞夫を旗頭とする皇道派は「相沢に続け」とばかりに二・二六事件への策動を始めた。一方、永田鉄山を喪った統制派は求心力を失い、武藤章・田中新一・東條英機ら単純な強硬派が手柄を競うように暴走、統制派と距離を置く石原莞爾の不拡大路線を排して日中戦争を泥沼化させ、無謀な対米開戦へと突き進んだ。永田鉄山は一夕会に同志を結集して長州閥から陸軍の主導権を奪い「国家総動員体制」=軍事国家へのレールを敷いた戦前史最大のキーパーソンだが、遵法と陸軍の統制を重視し(統制派の由来)十月事件を起した橋本欣五郎の極刑を主張し、石原莞爾らの満州事変では暴走抑止に努めた。また、国家総動員は総力戦時代に伴う世界的潮流であり、第一次大戦を研究した永田鉄山はスイス流の武装中立国家を目指したともいわれる。一夕会・統制派の幹部で企画院総裁を務めた鈴木貞一は第二次大戦後「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」と無念がったというが、「陸軍の至宝」永田鉄山の早すぎる死は正に国家的損失であった。
- 大黒柱の永田鉄山が皇道派将校に殺害された後、陸軍の主導権は一夕会系の石原莞爾、武藤章、田中新一、東條英機へと変遷した。永田鉄山斬殺事件と二・二六事件への関与で真崎甚三郎・荒木貞夫・小畑敏四郎ら皇道派が自滅した後、二・二六事件を断固鎮圧した石原莞爾が陸軍中央で主導的立場となり、参謀本部に作戦部を創設して権限を集中し自ら作戦部長に就任した。石原莞爾は、自陣の林銑十郎・板垣征四郎を首相・陸相に担ぎ、持論の「世界最終戦争論」に沿った対中融和・日満蒙連携による国力・軍事力涵養政策を推進した。が、盧溝橋事件が勃発すると、日中戦争の泥沼化を予期し不拡大を唱える石原莞爾・河辺虎四郎・多田駿らは少数派となり、強硬な「華北分離工作」を主張する武藤章・田中新一・東條英機ら統制派と鋭く対立、近衛文麿首相・広田弘毅外相が日中戦争拡大に奔ったことで統制派が主導権を確立し陸軍中央から石原ら不拡大派を一掃した。この間の陸軍中央における政治空白は、東條英機・板垣征四郎ら出先指揮官の独断専行を招き関東軍が自律的に戦線を拡大させる事態をもたらした。武藤章らは永田鉄山以来の「中国一激論」に固執し「強力な一撃を加えれば国民政府は早々に日本に屈服する」との甘い期待のもと大量兵力を投入し中国全土に戦線を拡大したが、上海・南京が落ちても蒋介石は屈服せず日本軍は「点と線の支配」に終始、石原莞爾の危惧通り日中戦争は泥沼化した。武藤章は日中講和へ転じるも近衛文麿首相は「トラウトマン工作」を一蹴、「国民政府を対手とせず」と声明し蒋介石を後援する米英を「東亜新秩序声明」で挑発した挙句に日独伊三国同盟で敵対姿勢を鮮明にした。武藤章軍務局長は対米妥協に努めたが果たせず、主導権を奪った最強硬派の田中新一が東條英機内閣で対米開戦を断行、東條首相は憲兵隊を使って反抗勢力を締上げ宿敵の石原莞爾を軍隊から追放し倒閣工作に加担した武藤を前線のスマトラへ放逐した。「負けを認めない」田中進一は、ガダルカナル島撤退に反発して佐藤賢了軍務局長と乱闘事件を起し東條首相を面罵してビルマ方面軍へ左遷されたが、牟田口廉也司令官のインパール作戦の大暴挙に関与した。
- 「昭和維新」「尊皇討奸」を掲げる陸軍の隊付青年将校グループが独断専行で帝都駐在部隊1483人を動かし未曾有の武装蜂起事件を起した(二・二六事件)。反乱将校らは皇道派の真崎甚三郎大将を首班とする軍事政権樹立を目指し、帝都要衝の総理大臣官邸・警視庁・陸軍省・参謀本部・東京朝日新聞を武装占拠し「国家改造」を要求、最終目標の皇居占拠・天皇確保は近衛師団に阻まれ断念したが、岡田啓介首相・高橋是清蔵相・斎藤実内大臣・鈴木貫太郎侍従長・渡辺錠太郎陸軍教育総監・牧野伸顕前内大臣を次々と襲撃し高橋・斎藤・渡辺を殺害、岡田首相は側近の身代わりで虎口を逃れ、鈴木は重傷を負うも一命を取留めた。岡田・斎藤・鈴木は海軍条約派・高橋は財政家として軍拡要求に反対し「君側の奸」と憎まれていた。陸軍は大混乱に陥り反乱部隊と気脈を通じる真崎甚三郎・荒木貞夫・本庄繁ら皇道派重鎮と、荒木を「バカ大将」と面罵し断固鎮圧を主張する石原莞爾らの対立があったが、信頼する重臣を殺害された昭和天皇は「反乱」鎮圧を厳命した。3日後の2月29日、敬慕する昭和天皇に朝敵の烙印を押された反乱将校は部隊を解散して兵卒を原隊に復帰させ2人が拳銃自殺し他は全員投降、最終的に反乱将校16人および黒幕とされた民間右翼の北一輝と西田税が死刑に処され、数十人に禁固刑判決が下された。二・二六事件後、茫然自失の岡田啓介首相が退陣し広田弘毅内閣が発足、中立派の寺内寿一を陸相に担いだ石原莞爾が陸軍の綱紀粛正を断行し、皇統派は処罰を免れるも真崎甚三郎・荒木貞夫ら7大将と小畑敏四郎・山下奉文を含む将佐官の悉くが陸軍中央から追放された。日中戦争が始まると武藤章・田中新一ら統制派が不拡大を説く石原莞爾から陸軍の主導権を奪い強硬外交と軍国主義化を牽引、皇統派に憎まれ予備役間近といわれた東條英機も一躍陸軍中枢へ台頭し、テロの脅威が蔓延するなか軍部は再発をちらつかせて強迫姿勢を強め、結果的に二・二六事件は反乱将校が目指した軍事国家樹立への重大な伏線となった。
- 二・二六事件で退陣した岡田啓介に代わり外相の広田弘毅が組閣した。元老の西園寺公望は近衛文麿を推薦したが、陸軍皇道派・青年将校に同情的な近衛に断られ、独占してきた首相指名権を重臣会議に譲り一線を退いた。最難局の後継選びは難航したが、重臣の一木喜徳郎が広田弘毅を推し、賛同した近衛文麿が懇意の吉田茂(広田と同期の外務官僚)を送り承諾させた。右翼結社「玄洋社」に属し出自も悪い広田弘毅の組閣に昭和天皇は難色を示し「名門を崩すことのないように」と異例の訓示を与え、広田は「自分は50年早く生れ過ぎたような気がする」と漏らしたという。外務省傍流ながら野心家の吉田茂は外相を狙ったが、軍部の反対で挫折し駐英大使に回されている。前年に統制派首領の永田鉄山が斬殺され(相沢事件)二・二六事件を起した陸軍は激しく動揺したが、一夕会員ながら両派に属さない石原莞爾が主導権を握り中立派の寺内寿一(長州閥の寺内正毅の嫡子)を広田弘毅内閣の陸相に擁立、軍規粛清を掲げ二・二六事件に関与した真崎甚三郎・荒木貞夫ら七大将を予備役に追込み皇道派の将佐官を陸軍中央から一掃した。その結果、武藤章・田中新一ら「中国一撃論」の統制派が圧倒的優勢となり、予備役編入を噂された東條英機も復活し関東軍参謀長に就任した。さて、昭和天皇と重臣会議に軍部抑制を期待された広田弘毅首相だが、玄洋社右翼の本性を現し軍部の強硬外交を助長、軍部大臣現役武官制の復活・「満州開拓移民推進計画」決定と開拓移民団の派遣・日独防共協定調印・「北守南進政策」の決定・海軍軍縮条約廃棄と、1年に満たない広田弘毅内閣のもと軍国主義化と反米英路線が一気に加速した。第一次近衛文麿で外相に復帰した広田弘毅は再び強硬外交を展開、盧溝橋事件が起ると直ちに増派を決定して日中戦争へ拡大させ、トラウトマンの和解工作を蹴り「蒋介石の国民政府を対手とせず」との第一次近衛声明で日中戦争を泥沼化へ追込み、無謀な「東亜新秩序声明」で英米を敵に回す愚を犯した。
- 寺内寿一陸相と政党の対立激化で「腹切り問答」が起り広田弘毅内閣が総辞職、代わって陸軍の林銑十郎が組閣した。重臣会議は陸軍長州閥の系譜を継ぐ穏健派の宇垣一成を首相指名したが、石原莞爾ら一夕会系幕僚は宇垣内閣を「流産」させ林銑十郎を擁立した。林銑十郎は、満州事変で参謀の石原莞爾・神田正種に担がれ朝鮮軍の越境出動を断行し、皇道派の真崎甚三郎に属したが永田鉄山へ鞍替えし統制派優先人事を後援した人物で、石原にとっては「猫にも虎にもなる」便利な傀儡であった。時代錯誤で意味不明な「祭政一致」を掲げ発足した林銑十郎内閣は、政党勢力に打撃を与えるべく抜打ち解散(食い逃げ解散)を強行したが続く総選挙で惨敗、陸軍にも見放されて僅か4ヶ月で退陣し「何もせんじゅうろう内閣」と揶揄された。
- 4ヶ月で自滅した林銑十郎内閣の退陣を受け第一次近衛文麿内閣が発足、広田弘毅が外相に復帰した。五摂家筆頭でスマートな近衛文麿は昭和天皇・西園寺公望らに軍部抑制の切り札と期待され、反米英・現状打破の論客で陸軍と大衆にも受けが良く、早くから首相候補に擬せられていた。組閣後間もなく盧溝橋事件が発生、陸軍統制派の「中国一激論」に感化され中国の抵抗力を侮る近衛文麿首相・広田弘毅外相・米内光政海相は直ちに強硬姿勢を鮮明にし、武藤章・田中新一ら陸軍の「華北分離工作」に応じて朝鮮および満州から二個師団・日本から三個師団を華北戦線へ投入、日中戦争が始まった。日本軍は北京・天津・上海を攻略し(第二次上海事変)国民政府の首都南京を落とし武漢三鎮まで占領したが、補給線は限界に達し中国軍の逃避戦術で決定的勝利を収められず戦線は膠着した。国民に厭戦ムードが広がると近衛文麿内閣は「八紘一宇」「王道楽土」などと戦意高揚に腐心し、陸軍すら停戦へ傾くなかトラウトマンの和解工作を蹴り「蒋介石の国民政府を対手とせず」という第一次近衛声明で自ら講和の道を塞ぎ日中戦争を泥沼へ引きずりこんだ。さらに、陸軍統制派念願の国家総動員法で軍国主義化を決定付け、無謀な「東亜新秩序声明」で欧米を激しく挑発し日米通商航海条約破棄および蒋介石支援強化(援蒋ルート)を招来した。
- 北清事変後に日本人居留民保護のために天津に駐留した日本軍は、増派により一旅団(約7千人)の規模となっていた。この天津駐留軍のうちの一大隊が、盧溝橋付近で軍事演習中に偶発的に中国軍と衝突、緊張が高まった。第一報を受けた牟田口廉也連隊長は無断で抗戦命令を出したが、特務機関が間に入って一旦は停戦協定が成立した。ところが、牟田口廉也は協定を無視して軍を進め、中国軍から銃撃を受けると又も無断で攻撃命令を下し宛平県城を攻落し天津付近の中国軍を掃討、戦闘はすぐに上海へ飛び火し「日中戦争」が始まった。現地指揮官の河辺正三旅団長は牟田口廉也の暴走を黙認した。なお、皇道派に属した牟田口廉也は二・二六事件で陸軍中央を追われ天津に左遷されたが、盧溝橋事件を統制派に評価され「東條英機の子分」となった。8年に及ぶ日中戦争のトリガーを引いた牟田口廉也・河辺正三コンビは、お咎めなしどころか東條英機に引立てられ、ビルマ方面軍指揮官として「インパール作戦」で再び大暴走、イギリス軍に無意味なインド侵攻作戦を仕掛け6万4千人(拉孟騰越戦の2万9千人を含む)もの戦死者と4万2千人の戦傷病者を出す戦史上最悪の大失策を犯した。
- 二・二六事件後、陸軍中央では反乱将校および皇統派の断罪を主導した石原莞爾作戦部長が指導的地位に就き、日中戦争泥沼化を予期し停戦工作に奔走したが、石原に従う河辺虎四郎・多田駿らは少数派であり、蒋介石政府を侮り戦線拡大(華北分離工作)を主張する武藤章・田中新一・東條英機ら統制派と鋭く対立、武藤などは作戦部の部下ながら「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」などと愚弄する始末であった。石原莞爾は政府にも直接不拡大を説いたが、統制派以上に強硬な近衛文麿首相・広田弘毅外相に拒絶され米内光政海相も断固膺懲を主張したため進退窮まり、石原は関東軍参謀副長に左遷され(関東軍参謀長の東條英機と衝突し予備役編入)河辺虎四郎・多田駿ら不拡大派も一掃された。この間の陸軍中央における政治空白は東條英機ら出先指揮官の独断専行を許し関東軍が自律的に戦線を拡大させる無秩序状態をもたらした。陸軍の指揮権を奪った武藤章ら統制派は、永田鉄山以来の「中国一激論」に固執し、強力な一撃を加えれば国民政府は早々に日本に屈服するとの予測のもと大量兵力を投入し戦線を拡大させたが、上海・南京を落としても蒋介石は屈服せず日本軍は「点と線の支配」に終始、石原莞爾の読み通り日中戦争は泥沼化し日本軍は不毛な消耗戦を強いられ、英米の中国権益を侵し蒋介石支援に奔らせる結果を招いた。
- 泥沼化の様相を深める日中戦争に対し、世論には厭戦ムードが広がり、張本人である陸軍の武藤章さえも停戦論に傾いた。そこで、オスカー・トラウトマン駐中国ドイツ大使を介して日中和解工作が進められ、停戦への期待が高まった。ところが、近衛文麿首相・広田弘毅外相は賠償金要求など非現実的な強硬論を主張し「軍部がかくの如く拙策をとって講和を急ぐ真意は理解できない」として折角の和解案を蹴ってしまった。国際良識派とされ後に日独同盟・対米開戦に反対する米内光政海相は、このとき断固膺懲を唱え、陸軍参謀本部の停戦要求に反対した。トラウトマン工作を一蹴した翌日、悪乗りした近衛文麿首相・広田弘毅外相は「蒋介石の国民政府を対手とせず、汪兆銘政府(日本の傀儡)を樹立してそちらと交渉する」との「第一次近衛声明」を発表した。蒋介石政府との和解への道を自ら塞ぐ軽挙妄動で日本は泥沼の日中戦争から抜けようにも抜けられない状態に陥り、蒋介石を援助する英米との妥協も著しく困難となった。対外硬パフォーマンスで国民大衆のウケをとった近衛文麿・広田弘毅は、更に「日本・満州・中国(汪兆銘政権)が提携して東亜新秩序を樹立する」というスローガンを帝国議会で開陳し「第二次近衛声明」として国内外に公表した。例に拠って近衛文麿に深い考えは無く、当時ナチス・ドイツが唱えていた「ヨーロッパ新秩序」に倣い日中戦争を正当化する目的で発したものとみられる。が、欧米列強にすれば現行の国際秩序に対する露骨な挑発行為であり、愚かな近衛声明により態度を硬化させたアメリカは天津事件を機に日米通商航海条約を破棄し日独伊三国同盟への敵対姿勢を鮮明にした。
- 一撃を加えれば蒋介石政権は屈服し日中戦争は早期に片付くという武藤章の「中国一激論」は挫折し日中戦争は泥沼化、武藤は自ら起草した「華北分離工作」を捨てて日中講和へ転じトラウトマン工作などに加担したが、陸軍以上に強硬な近衛文麿首相・広田弘毅外相は和解案を一蹴し悪乗りの「近衛声明」で自ら日中講和への方途を塞ぎ、陸軍では田中新一・東條英機らの強硬論が優勢となった。田中新一は自他共に認める永田鉄山の後継者で、軍需資源を求めて日中戦争拡大を図ると同時に、対ソ連開戦を目論み事実上の開戦準備(関東軍特種演習)を断行した最強硬派であった。日中戦争で中国権益を侵された英米は蒋介石支援を強化(援蒋ルート)、反米英の田中新一は資源調達の代替手段を準備すべく東南アジア進出を強行し(南進政策)、武藤章は中ソ二正面作戦を回避すべく南進には同意したが国力が懸絶するアメリカとの戦争には反対で妥協は可能との考えであった。対する田中新一は、南進政策を採る以上イギリス権益との衝突は自明で大英帝国の国力低下は対ドイツ戦に不利に働く、となればイギリスを欧州安全保障の要に置くアメリカの軍事介入は避けられないと考え、援蒋ルートの遮断と対米開戦準備、さらに欧州でソ連・イギリスと対峙するナチス・ドイツとの同盟を強硬に主張した。結局、第二次近衛文麿内閣は田中新一・松岡洋右らの強硬策を採用し日独伊三国同盟・南部仏印進駐を断行するがアメリカの石油輸出全面禁止を招き、進退窮まった近衛が政権を投出すと統制派最年長の東條英機が首相に就き石油禁輸が致命的な海軍の同意を得て対米開戦を決定した。
- 近衛文麿内閣は、永田鉄山以来の陸軍統制派の悲願である国家総動員法を成立させた。徴用、賃金、物資の生産・消費など、国民が有するあらゆる権利を国防の名のもとに政府が統制できるという無茶苦茶な法律であり、軍部が総力戦を遂行するためには是非とも必要なものであった。国家総動員法案には、さすがに政友会や民政党も猛反対したが、なんと左翼の社会大衆党が党利党略から賛成にまわり、西尾末広代議士などは議会で勇ましい応援演説を打ち、政友会の重鎮尾崎行雄まで西尾を支持する有様であった。堕落した政党勢力に押し留める力はなく、近衛首相と軍部に押し切られる形で国家総動員法案が成立してしまった。
- 東大法学部を主席で卒業した平沼騏一郎は司法省へ進み司法次官・検事総長・司法相・枢密院議長と累進、陸軍・右翼の支持を背景に首相に上り詰めたが、独ソ不可侵条約でドイツの二面外交に翻弄され僅か8ヶ月で退陣した。平沼騏一郎は中立たるべき法曹家ながらガチガチの国粋主義(観念右翼)を隠さず、民主主義・社会主義・共産主義・ナチズム・ファシズムなど外来思想を悉く嫌悪し、右翼団体「国本社」で大衆啓蒙に努め、「検察のドン」の立場を駆使して社会主義者や政党勢力の排撃に奔走した。平沼騏一郎は、「大逆事件」で幸徳秋水ら12人の死刑を求刑し、「企画院事件」で左翼官僚を弾圧(余波で小林一三商工相と岸信介商工次官が辞任)、若槻禮次郞・濱口雄幸の政党内閣を攻撃し、陸軍と共謀した「帝人事件」スキャンダルで斎藤実内閣を打倒、天皇機関説問題・国体明徴運動で西園寺公望ら天皇側近を揺さぶり、西園寺が首相指名権を手放し政党との対立で近衛文麿が第一次政権を投出すと平沼に念願の組閣大命が降された。が、平沼騏一郎内閣はナチス・ドイツからの同盟提案で右往左往するなか青天の霹靂の独ソ不可侵条約に遭遇、ヒトラーに愚弄された平沼首相は面目を失い「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じましたので」の名言のみを残し退場した。ドイツを憎む平沼騏一郎は、第二次・第三次近衛文麿内閣の閣内にあって日独伊三国同盟に反対し、陸軍統制派の「国家総動員体制」や近衛首相の「新体制運動」(大政翼賛会に結実)にはナチス流国家社会主義の模倣と異を唱えた。対米開戦後、重臣会議に列した平沼騏一郎は陸軍統制派との因縁から一応和平派陣営に属し、東條英機内閣打倒やポツダム宣言受諾に一票を投じたが、常に態度不鮮明な平沼を昭和天皇は「結局、二股かけた人物というべきである」と軽蔑した。東京裁判で投獄された平沼騏一郎は精神を病み1952年に病没したが(終身禁固刑)「日本が今日の様になったのは、大半西園寺公の責任である。老公の怠け心が、遂に少数の財閥の跋扈を来し、政党の暴走を生んだ。これを矯正せんとした勢力は、皆退けられた」と独善的な歴史認識を開陳している。
- 満州西北部のノモンハンを中心とするホロンバイル草原で、関東軍・満州国軍と、極東ソ連軍・モンゴル軍とが激突した。満州国を認めないソ連軍とモンゴル遊牧民には国境意識が希薄であり、偶発的な小競り合いが頻発するなか些細な「国境紛争」で片付くはずだった。「北守南進論」を採る陸軍中央はソ連との衝突を回避する方針で植田謙吉関東軍司令官に不戦を厳命したが、戦争がなく無聊をかこつ関東軍作戦参謀の服部卓四郎と辻政信は命令を無視して第23師団以下に戦闘命令を下し無用の大戦闘を引起した。ソ連のスターリンは、ドイツがポーランドに侵攻する前に日本軍を叩き潰して東方の安全を確保すべく徹底抗戦を決意、名将ジェーコフを総指揮官に最新鋭の機械化戦車部隊・重砲部隊・航空機部隊を投入した。著しく軍備が劣る日本軍は大苦戦、前線で戦った連隊長のほとんどが戦死または自決し大損害を出して撤退した。ソ蒙軍の損害も大きく日本軍の7720人を上回る戦死者を出したが、実態は日本軍の完敗であった。植田謙吉司令官をはじめ関東軍幹部は責任を問われ退役したが、首謀者の服部卓四郎と辻政信は免責どころか東條英機・田中新一の庇護で陸軍中枢の参謀本部作戦課に呼戻され、ノモンハン事件の反省無きまま南進政策に精を出した。作戦参謀としてシンガポールに赴任した辻政信は「華僑虐殺事件」を引起し、終戦直前のビルマ戦線で敵兵の人肉食を強要、敗戦が決すると僧侶に化けて戦犯追及を逃れ、ほとぼりが冷めると日本に舞戻り逃避行記『潜行三千里』がベストセラー、ワシントン講和後に衆議院議員4期と参議院議員1期を勤め岸信介首相を「東條英機内閣の閣僚だった」と糾弾したが、ラオス視察中に行方不明となり死亡が宣告された。東京裁判での起訴を免れた服部卓四郎はGHQに取込まれ、ウィロビー(G2)肝煎りの「服部機関」で米国の意向に添った太平洋戦史の編纂にあたり、自ら出鱈目な『大東亜戦争全史』を出版した。日本の再軍備に際してウィロビーはマッカーサーに服部卓四郎を参謀総長に推薦したが、吉田茂の猛反対で事無きを得た。
- 天津のイギリス租界内で、日本人に便宜を図った関税委員が反日中国人に殺害される事件が起った(天津事件)。日本は犯人の引渡しを求めたが、イギリス領事館が拒否したため、北支那方面軍の山下奉文参謀長と武藤章参謀副長らの強硬派が乗出し、国際紛争に発展した。日本国内では反英的な論調が盛んとなり、東京朝日新聞、東京日日新聞(毎日新聞)をはじめとする大新聞各社がイギリスに対して強硬な共同声明を出すに至った。イギリスは日本との決定的対立を避けるために抵抗を止め、クレーギー駐日英大使が東京で有田八郎外相と会談、日本の要求を全面的に受入れて和解協定を結んだ。これで一件落着と思われた矢先に、突如としてアメリカが日米通商航海条約の破棄を通告してきた。ルーズベルト政権のハル国務長官は、近衛文麿首相の「東亜新秩序声明」や「イギリスは日本に降参した」とか「徹底的外交の勝利」といった日本の論調に露骨な不快感を示し、中国、イギリスその他を支援して日独伊に敵対行動をとることを表明した。日本は主要な軍需物資である鉄・石油・機械類を輸入に依存しており、特にアメリカからの輸入が各品目とも輸入額の約4分の3を占めていた。第一次近衛文麿内閣の悪乗りが招いた対米関係の悪化は日本にとって致命傷であり、万難を排してでも妥協点を探るべきであったが、逆に陸海軍は資源の代替供給源を求め南進政策を推進し第三次近衛内閣のもと南部仏印進駐を断行する。
- 米価高騰で躓いた阿部信行内閣が国際情勢の激変に為す術無く退陣すると、海軍良識派の米内光政に組閣大命が降った。米内光政首相は同志の山本五十六・井上成美と共に日独伊三国同盟阻止に奔走したが、反米英・軍国主義化の流れは押し戻せず、陸軍は畑俊六陸相を辞任させて後継陸相を出さず米内内閣を倒した。
- 強固な対米英協調主義者で三国同盟反対の姿勢を崩さない米内光政首相は、畑俊六陸相が辞任し陸軍が後任陸相選出を拒否したため軍部大臣現役武官制により倒閣に追込まれ、陸軍に受けの良い「亡国の貴公子」近衛文麿が第二次内閣を組閣した。近衛文麿自身は中国蔑視・反英米主義者ではあるものの確たる政治信念はなかったが、大島浩(後の駐独大使)・白鳥敏夫(後の駐伊大使)・徳富蘇峰・中野正剛・末次信正(海軍艦隊派)・久原房之助(後の大政翼賛会総務)ら親独・反英米の大物連を取巻きとしたため近衛内閣の使命は自ずから三国軍事同盟と国家総動員の新体制運動(大政翼賛会に結実)となった。近衛文麿首相は、外相に反英米派急先鋒の松岡洋右を復活させ、陸相には統制派最年長の東條英機を採用した。海相には対英米協調派の吉田善吾が留任したが、松岡洋右外相・陸軍のみならず海軍の艦隊派からも突上げられノイローゼとなって辞任、後任海相には及川古志郎が就任した。なお、財界から阪急・東宝グループを築いた小林一三が商工相で入閣したが、統制経済を牽引する商工次官の岸信介と衝突、企画院事件で共倒れとなった。小林一三は政治から手を引いたが、「革新官僚」岸信介は続く東條英機内閣で商工相に昇進した。
- 第二次内閣を組閣した近衛文麿は、反米英の松岡洋右を外相・東條英機を陸相に据え、使命に掲げるナチス・ドイツとの同盟を強力に推し進めた。米内光政・山本五十六・井上成美ら海軍良識派に近い吉田善吾海相は反対したが海軍内でも岡敬純・石川信吾に突上げられノイローゼとなり辞任、後任海相の及川古志郎には陸軍が米内光政内閣を倒したように海相拒否で対抗する手もあったが、石川信吾・豊田貞次郎らの強迫でナアナアとなり、陸軍が出した海軍予算確保の餌に釣られた。直後の海軍首脳会議で連合艦隊司令長官の山本五十六は最後の抵抗を試みたが伏見宮博恭王元帥の「ここまできたら仕方がないね」の一声で勝負あり、皮肉にもバトル・オブ・ブリテンでドイツ軍が敗れた当日それを知らない日本海軍は同盟承認を最終決定した。かくして、陸軍は明治以来の仮想敵国ソ連の牽制、海軍は米英との建艦競争予算の確保、松岡洋右外相は首相就任に向けた大衆・軍部へのアピールと、三者三様の思惑を近衛文麿首相がまとめあげ日独伊三国同盟が成立したが、最強国アメリカを正面敵に回す痛恨事であった。最後の元老で近衛文麿を後継者にした西園寺公望は「これで日本は滅びるだろう。これでお前たちは畳の上では死ねないことになったよ。その覚悟を今からしておけよ」と側近に語り2ヵ月後に世を去った。アメリカは即座に報復し軍事物資などの経済封鎖を強化(ABCD包囲網)、石油が無ければ一日も軍艦を動かせない海軍は強硬派の岡敬純・石川信吾および海軍国防政策委員会の独壇場となり、田中新一ら陸軍反米派と提携し産油地獲得と援蒋ルート遮断を目的に南部仏印進駐を強行した。陸海軍も近衛文麿内閣もアメリカは強攻策に出ないと信じたが甘い期待は裏切られ、対日開戦を決意したアメリカは石油輸出全面禁止を敢行、自分の首を絞めた日本は勝ち目の無い対米開戦へ追込まれた。万策尽きた近衛文麿が政権を投出すと、木戸幸一内大臣は東條英機を後継首相に推挙し重臣会議(若槻禮次郞・岡田啓介・広田弘毅・林銑十郎・阿部信行・米内光政・原嘉道)は「天皇に忠実」という理由で最悪の人選を受入れた。
- 第一回御前会議で「対英米戦を辞せず」と決定したのを受けて、近衛文麿首相は、強硬派で日本の外交を掻き乱してきた松岡洋右外相を外すため内閣を総辞職、すぐに松岡抜きの第三次近衛内閣を組閣した。「大東亜共栄圏」を掲げて対中強硬路線と南進政策を主張する松岡洋右は、第二次近衛内閣の外相に抜擢され、近衛首相と軍部の期待に応えて日独伊三国同盟締結と北部仏印進駐を主導した。しかし、松岡の外交思想は単に「漁夫の利」を求める場当たり的な機会主義的強権政治であり、国際政治情勢の変化によって右往左往し、政局を引っ掻き回した挙句に外相の地位を追われることとなった。ドイツ軍が欧州を席巻するなか、松岡外相の当初のシナリオは、「1940年秋頃」の大英帝国崩壊を睨み、ドイツと同盟を結んで欧州戦争参戦の口実を整え、「南進政策」を推し進めてアジアの英仏蘭植民地を奪取する、ただし米ソとは不戦体制を構築するというものであった。しかし、ソ連とは日ソ中立条約を締結したものの、安全保障戦略上イギリスを失えないと判断したアメリカは大掛かりな経済・軍事支援に乗出し、大英帝国崩壊の可能性は消滅した。これで日独伊三国同盟は完全に裏目に出て、軍需物資の大半をアメリカからの輸入に頼る日本は窮地に陥り、南進政策は可能性の問題ではなく死活問題へと転化した。慌てた松岡外相は、南進政策反対と対米妥協に転じ、軍部が仕掛けたタイ仏印国境紛争の沈静化に動いたが、野村吉三郎駐米大使の日米和解交渉を妨害し、蘭印との経済交渉も打ち切らせた。アジアに対する強攻策も穏健策も否定する一方で、対米妥協をも否定するという意味不明の迷走を続けるなか、独ソ戦が勃発すると、今度はなんと対ソ開戦を主張した。「漁夫の利」を求める松岡には合理的であっても、対米妥協を図る近衛首相、南進政策に集中したい軍部から完全に見放され、閣外へ放逐されることとなった。松岡外相の「積極外交」は幕を閉じたが、その爪痕は甚大な禍根となり、関東軍特種演習(対ソ開戦に備えた関東軍増強)、南部仏印進駐、対米開戦へと続く亡国路線を決定付ける役割を果した。
- 第二回御前会議の結果を受けて、近衛文麿首相は野村吉三郎(海軍出身)駐米大使を通じて日米交渉を再開しようとしたが、時既に遅く、アメリカから相手にされなかった。近衛首相は閣議で対米妥協策を諮ったが、東條英機陸相から中国からの陸軍撤兵は「心臓停止」に等しく絶対に承認できない「人間、清水の舞台から飛び降りる覚悟が必要だ」と突上げられ、「東條の男めかけ」といわれた嶋田繁太郎海相は東條陸相に与し永野修身軍令部総長は「よくわからないので首相に一任」と責任を回避する情けない有様で、近衛首相は陸海軍の不一致を理由に土壇場で政権を放り出してしまった。後任首相は昭和天皇と木戸幸一内大臣の協議により決められたが、対米協調派の皇族軍人で軍部にも抑えが効く東久邇宮稔彦王が有力視されるなか、よりによって最大の主戦論者である東條英機を選んでしまった。愚かな決断をした木戸幸一の真意は不明だが、強硬派ながら天皇への忠節が厚い東條に任せれば天皇の意を汲んで開戦回避に尽力するだろうとの思惑があったとみられ、天皇は木戸の奏上に「虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね」と答えたという。首相となった東條英機は、陸相と参謀総長を兼務し、対米開戦を諌めた網本浅吉陸軍少将を追放するなどして反対勢力を一掃した。組閣直後は天皇の意に適うべく対米開戦回避に努めたが、戦争の決意を固めたアメリカを相手に中国・仏印からの完全撤退の他に打開策は無く、強硬な陸軍統制派を基盤とする東條首相には開戦以外の選択肢は残されていなかった。
- 「日米諒解案」が挫折した後も野村吉三郎駐米大使はワシントンに留まりハル米国務長官と妥協点を探る交渉を続けたが時既に遅し、開戦準備を終えたアメリカは突如交渉を打切り「日本軍が仏印と中国から撤退しない限り経済封鎖を解除しない」とする最後通牒(ハル・ノート)を東條英機政府に突きつけた。要するに満州事変以前への原状回復を迫る、当時の外交常識に反する超強硬姿勢であり、アメリカも日本が呑むとは考えておらず日本を挑発して開戦に踏切らせようとの意図があった。完全に手詰まりとなった東條英機内閣は、若槻禮次郞や米内光政ら良識派重臣の最後の諫止を黙殺し、第四回御前会議において対米開戦を決定した。なお、当時アメリカは日本の外交暗号「パープル」の解読に成功しており、日本サイドの情報は筒抜けであった。近衛文麿・東條英機内閣が対米開戦に踏切った背景にはナチス・ドイツ軍への過剰な期待があったが、確かにソ連の敗北は必至と思える戦況があった。東部戦線を片付けたドイツは西部戦線に兵力を集中しイギリスを撃破するはずであり、欧州に足場を失えばアメリカも戦意喪失し早期講和に応じるだろう・・・こうした希望的観測を陸海軍を含む日本全体が共有していた。が、東條英機内閣が第四回御前会議で対米開戦を決定した数日後、ドイツ軍はスターリンが陣取るモスクワまで30kmに迫りながら悪天候とソ連軍の猛反撃により後退を開始、ドイツ優位で進んできた独ソ戦の趨勢は一変し、甘い他力本願戦略には対米開戦を前に狂いが生じた。
- 日本軍がマレー侵攻と真珠湾攻撃を敢行、英米蘭中が日本に宣戦布告、これを受けて独伊が米に宣戦布告し、太平洋戦争が始まった。1941年において、アメリカのGNPと鉄鋼生産量はいずれも日本の12倍、持久戦・総力戦になれば全く勝つ見込みのない戦争であった。山本五十六連合艦隊司令長官が自ら立案した日本海軍による真珠湾攻撃は、結果的には鮮やかな戦果を挙げたが、非常にリスクの高い冒険的作戦であった。持久戦では勝ち目がないと確信する山本五十六は、日本近海で敵艦隊を待ち伏せし大鑑巨砲で決戦に挑むという軍令部の作戦の非を悟り、「桶狭間とひよどり越と川中島とをあわせ行うの已むを得ざる羽目に、追込まれる次第に御座候」と覚悟を定め乾坤一擲の大博打に挑んだのである。真珠湾攻撃が成功すれば早期講和に持ち込み、もし惨敗しても戦争は続行不能、いずれにせよ戦争を早期に終わらせるための攻撃作戦であった。山本五十六の悲壮な決意を知らない海軍中枢の幕僚らは、自分らの作戦に固執して真珠湾攻撃の阻止を図ったが、山本らが良い加減な永野修身海相を押し切って実現させた。なお、宣戦布告文書の手交が真珠湾攻撃開始に1時間遅れたため、「リメンバー・パールハーバー」のスローガンで現在に至るまでアメリカの反日政策に利用されることとなったが、これは日本大使館員の怠慢が原因であり、日頃の野村吉三郎大使への反抗的態度が思いもよらぬ大問題に発展したというお粗末極まりない話であった。
- 戦局が悪化しても強硬論を曲げない東條英機首相(陸相と参謀総長を兼務)に対し、岡田啓介・米内光政・若槻禮次郞・宇垣一成ら重臣は結束して倒閣工作に動いた。東條独裁下の陸軍は頑強に抵抗したが、東條英機首相が自ら「防衛は安泰」と豪語したサイパン島が呆気なく陥落し敗戦が決定的になると、重臣会議は意を決して粘る東條を引きずり降ろした。「戦争遂行内閣」の後継首相は陸軍から出すこととなったが「陸軍大将を任官年次の古い順に見ていって適当な人物を捜す」という投遣りな選考の結果、宇垣一成の穏健派に連なる小磯國昭に組閣の大命が降された。陸相には強硬派の杉山元が就任したが、小磯國昭の能力不足を補うため元首相で海軍良識派の米内光政が海相に復帰し「小磯・米内連立内閣」といわれた。小磯國昭は、陸士(12期)を出て日露戦争に従軍、陸大の席次は55人中33番と凡庸だったが、長州閥の系譜を引く宇垣一成に属し派閥争いが盛んな陸軍にあって人柄と人付合いの良さで台頭、要職の軍務局長・陸軍次官・関東軍参謀長・朝鮮軍司令官を歴任した。小磯國昭大将は予備役に退いたが、調整能力を買われて平沼騏一郎・米内光政内閣に拓務相で入閣し、朝鮮総督を経て首相へ上り詰めた。小磯國昭に特筆すべき業績は無いが、朝鮮総督として同化政策(皇民化政策)を推進したことや、陸軍航空本部員として欧州視察を経験し空軍力の充実を持論としたことなどが知られている。さて、実は戦争終結を期待された小磯國昭内閣は、徹底抗戦を叫ぶ陸軍を懐柔すべく「一撃を加えた上で有利に対米講和を進める」建前を示し徴兵年齢拡大(根こそぎ動員)を断行したが相手にされず、本土爆撃が本格化するなか愚にも付かない「本土決戦完遂基本要綱」を容認した。米内光政海相・重光葵外相や近衛文麿・木戸幸一ら重臣にも見放された小磯國昭首相が何も出来ないまま、レイテ沖海戦で海軍が壊滅し東京大空襲・硫黄島陥落・沖縄侵攻・日ソ中立条約廃棄通告と戦局は見る間に悪化し、戦艦大和撃沈の日に小磯内閣は退陣した。終戦後、小磯國昭は東京裁判で終身刑判決を受け1950年に巣鴨プリズンで獄死した。
- 敗戦必至の戦局が徒に長引くなか、岡田啓介・米内光政・若槻禮次郞・宇垣一成ら重臣が東條英機内閣を打倒し、無能な小磯國昭内閣に代わり昭和天皇の信任篤い鈴木貫太郎の「終戦内閣」が成立、ナチス・ドイツの降伏、ソ連の日ソ中立条約廃棄、沖縄戦敗北、空襲で国中が焼け野原と化すに及び漸く陸軍は「本土決戦」を断念した。鈴木貫太郎内閣と陸軍は中立条約締結国のソ連を仲介とする日米和平交渉に最後の望みを繋いだが、ヤルタ会談で米英に8月9日の対日参戦を約束済みのスターリンが仲介などするはずはなかった。かくして鈴木貫太郎内閣はポツダム宣言受諾を決めたが降伏条件で紛糾、「天皇制護持」のみで妥結を図る東郷茂徳外相らに対し、阿南惟幾陸相・梅津美治郎参謀総長・豊田副武軍令部総長は「占領は小兵力且つ短期間」「武装解除および戦犯の処置は日本人の手で行う」との条件追加を声高に主張した。議事が膠着するなか、鈴木貫太郎首相は強引に御前会議を開いて昭和天皇の「聖断」を仰ぎ、天皇は慣例を破って自らの意見を述べ天皇制護持だけを条件とする東郷外相案に賛意を示した。その8月10日のうちに外務省は中立国を介し天皇制護持のみを条件にポツダム宣言を受諾する旨を通知、連合国から承認の回答を得た。陸軍幕僚らは連合国の回答をあげつらって悪あがきしクーデターを企てたが(宮城事件)、辛くもテロを逃れた鈴木首相は全閣僚・重臣を召集、席上昭和天皇が連合国回答に基づく降伏を明言し、正式の手続きを踏んで8月14日に日本の敗戦が決定した。いわゆる「無条件降伏」ではなかったが、日本が固執した天皇制護持さえアメリカ(GHQ)の恣意へ委ねられ、あれだけ血気盛んだった軍人らも忽ち意気阻喪した。最悪なのは「無敵関東軍」で、日本人居留民の安全を確保する前に早々に武装解除に応じ我先に内地へ帰還、「降伏文書調印(9月2日)までは交戦状態」というスターリンの屁理屈でソ連軍が満州に殺到し無防備の日本人に襲い掛かった。暴虐なソ連軍は日本の民間人18万人を虐殺し、国際法を無視して57万人以上の「戦争捕虜」を強制労働で酷使し10万人以上を死なせた(シベリア抑留)。
- [戦前史の概観]西南戦争で西郷隆盛が戦死し渦中に木戸孝允が病死、富国強兵・殖産興業を推進した大久保利通の暗殺で「維新の三傑」が全滅すると、明治十四年政変で大隈重信一派が追放され薩長藩閥政府が出現した。首班の伊藤博文は板垣退助ら非薩長・民権派との融和を図り内閣制度・大日本帝国憲法・帝国議会を創設、外交では日清戦争に勝利しつつ国際協調を貫いたが、国防上不可避の日清・日露戦争を通じて軍部が強勢となり山縣有朋の陸軍長州閥が台頭、桂太郎・寺内正毅・田中義一政権は軍拡を推進し台湾・朝鮮に軍政を敷いた。とはいえ、伊藤博文・山縣有朋・井上馨・桂太郎(長州閥)・西郷従道・大山巌・黒田清隆・松方正義(薩摩閥)・西園寺公望(公家)の元老会議が調整機能を果し、伊藤の政友会や大隈重信系政党も有力だった。が、山縣有朋の死を境に陸軍中堅幕僚が蠢動、長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機ら「一夕会」が田中義一・宇垣一成から陸軍を乗取り「中国一激論」と「国家総動員体制」を推進、石原莞爾の満州事変で傀儡国家を樹立し、石原の不拡大論を退けた武藤章が日中戦争を主導、最後は対米強硬の田中新一が米中二正面作戦の愚を犯した。一方の海軍は、海軍創始者の山本権兵衛がシーメンス事件で退いた後、「統帥権干犯」を機に東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王の二大長老を担いだ加藤寛治・末次信正ら反米軍拡派(艦隊派)が主流となり、国際協調を説く知米派の加藤友三郎・米内光政・山本五十六・井上成美らを退けた。「最後の元老」西園寺公望ら天皇側近は右傾化の抑止に努めたが、五・一五事件、二・二六事件と続く軍部のテロで(鈴木貫太郎を除き)腰砕けとなり、木戸孝一に至っては主戦派の東條英機を首相に指名した。党派対立に明け暮れ軍部とも結託した政党政治は、原敬暗殺、濱口雄幸襲撃を経て五・一五事件で命脈を絶たれ、大政翼賛会に吸収された。そして「亡国の宰相」近衛文麿が登場、軍部さえ逡巡するなかマスコミと世論に迎合して日中戦争を引起し、泥沼に嵌って国家総動員法・大政翼賛会で軍国主義化を完成、日独伊三国同盟・南部仏印進駐を断行し亡国の対米開戦へ引きずり込まれた。
- 1945年9月2日、東京湾に浮かぶ米戦艦「ミズーリ」艦上で重光葵外相と梅津美治郎参謀総長が天皇および東久邇宮稔彦王内閣を代表して降伏文書に署名した。重光葵らは「日本の首都から見えるところで、日本人に敗北の印象を印象づけるために、米艦隊のなかで最も強力な軍艦の上」に呼びつけられ「連合軍最高司令官に要求されたすべての命令を出し、行動をとることを約束」、ここにアメリカによるアメリカのための占領統治が始まり1951年のサンフランシスコ講和条約まで「日本政府はあって無きが如き」状態が続くこととなった。早速当日、マッカーサーは「日本を米軍の軍事管理下におき、公用語を英語とする」「米軍に対する違反は軍事裁判で処分する」「通貨を米軍票とする」という無茶苦茶な布告案が突きつけている(重光葵外相の奮闘で後日撤回)。最後まで粘った日本の降伏により米英ソ(連合国)の圧勝で第二次世界大戦は終結、犠牲者数には諸説あるがソ連1750万人・ドイツ420万人・日本310万人(うち民間人87万人)・フランス60万人・イタリア40万人・イギリス38万人・アメリカ30万人など合計4500万人もの死者を出したといわれ、空襲と市街戦・ユダヤ人虐殺などにより軍人を大幅に上回る民間人が犠牲となった。なお、満州には関東軍78万人がほぼ無傷で駐留していたが、陸軍首脳は8月14日のポツダム宣言受諾を受け早々17日に武装解除を命令、高級軍人から我先に日本本土へ逃げ帰った。が、ソ連のスターリンは8月14日の終戦通告は一般的な「ステートメント」に過ぎず降伏文書調印(9月2日)まで攻撃を継続すると宣言、無抵抗の満州を蹂躙し尽し北朝鮮まで制圧した。関東軍も約8万人の戦死者を出したが、満蒙の奥地に置去りにされた居留民は更に悲惨で18万人もの民間人が暴虐なソ連兵に虐殺された。さらに軍民あわせて57万人以上が「シベリア抑留」に遭難し、法的根拠が無いまま何年も過酷な強制労働を強いられ、最終的に10万人以上が極寒の地で没する悲劇を生んだ。かくして満州事変に始まった中国侵出は、最強国アメリカとの開戦で行詰り、兵士だけで40万人以上の犠牲者を出し最悪の結果で終結した。
- 東京裁判では、裁判中に病死した永野修身・松岡洋右と精神疾患で免訴された大川周明を除く25名が有罪判決を受け、うち東條英機・板垣征四郎・木村兵太郎・土肥原賢二・武藤章・松井石根・広田弘毅の7名が死刑となった。近衛文麿は召還命令を受けると抗議の服毒自殺を遂げた。東條英機は自作の『戦陣訓』に書いた「生きて虜囚の辱めを受けず」の信条を実践すべく拳銃自殺を図ったが、失敗して繋がれた。木戸幸一は、天皇と自身を守るため、GHQに『木戸日記』を提出して弁明に努めたが、保身のために同胞を売った行為として今なお悪評が高い。さらに、上海事変などの謀略工作に従事した陸軍人田中隆吉は、訴追を免れるため虚実取り混ぜた陸軍の行為をGHQに暴露した。大川周明は、裁判中に東條英機の頭をポカリとやって精神疾患と判断され免訴されたが、獄中でイスラム語のコーランを翻訳するなど、偽装の可能性が高い。なお、有罪判決を受けた戦犯は、広田弘毅・平沼騏一郎・東條英機・小磯國昭(以上総理大臣)・板垣征四郎・南次郎・梅津美治郎・土肥原賢二・荒木貞夫・松井石根・畑俊六・木村兵太郎・武藤章・佐藤賢了・橋本欣五郎(以上陸軍)・永野修身・嶋田繁太郎・岡敬純(以上海軍)・賀屋興宣・木戸幸一・松岡洋右・重光葵・東郷茂徳・大島浩・白鳥敏夫・鈴木貞一・星野直樹(以上文官)・大川周明(民間人)であった。東京裁判自体は「勝てば官軍」の暴挙だが、有罪者の顔ぶれは総じて妥当といえよう。対米開戦の張本人である陸軍の田中新一と海軍の伏見宮博恭王・末次信正をはじめ、無謀な計画で大勢を死なせた牟田口廉也・服部卓四郎・辻政信ら陸軍参謀および対米開戦を主導した海軍の高田利種・石川信吾・富岡定俊・大野竹二ら海軍国防政策委員会が対象外なのは解せないが、広田弘毅・松岡洋右・大島浩・白鳥敏夫など文官のガンもしっかり入っている。訴因が軍政に偏り統帥部が意図的に外されているが、天皇の訴追を避けたいアメリカの思惑が透けて見える。また、陸軍に比して海軍に甘いのが大きな違和感で、「陸軍=戦争=悪」という日本人の戦後史観に大きな影響を及ぼしたであろう。
阿部信行と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照