紀州藩重臣の子ながら坂本龍馬に随従、薩長藩閥政府に反抗し「立志社の獄」で投獄されるが、伊藤博文の引きで復活し第二次伊藤内閣の外相として不平等条約改正と日清戦争を牽引した波乱万丈の風雲児
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
陸奥 宗光
1844年 〜 1897年
100点※
家系・子孫
- 陸奥家は仙台藩主伊達家の分流で本性は伊達氏(伊達政宗の子孫ではない)、徳川御三家の紀州藩に仕え知行300石の上級武士となった。幕末の伊達宗広は、前紀州藩主で実力者の舜恭公に近侍し、勘定奉行として大々的に金融業を行い財政再建を成功させ知行800石へ加増された。が、舜恭公の「お国派」と江戸の幼君を担ぐ「江戸派」の御家騒動が起り、舜恭公の死に伴い伊達宗広は家禄没収のうえ紀伊田辺へ流罪、残された一家は流浪生活に陥り、六男の陸奥宗光は僅か14歳で江戸へ上り浪士群に身を投じた。幽囚10年の後に伊達宗広は赦免され微禄35石で再び紀州藩に出仕したが、脱藩上洛して尊攘派志士となり一目置かれる存在となった。陸奥宗光が坂本龍馬と出会うきっかけを作ったのは父の陸奥宗広だったともいわれる。さて陸奥宗光は、大阪の芸妓蓮子を妻としたが、蓮子死去により新橋芸妓の亮子を後妻とした。井上馨外務卿の鹿鳴館時代、美貌の陸奥亮子は「鹿鳴館の華」「在米公使館の華」と持て囃された。陸奥宗光は二男二女を生し、嫡子の陸奥広吉が伯爵を継ぎ、次男の陸奥潤吉は古河財閥創始者の古河市兵衛に入嗣し二代目古河市兵衛となった。伯爵陸奥広吉は、ロンドン法科学院を卒業してバリスターの称号を得、帰国して外交官となり駐ベルギー特命全権公使まで務め退官した。古河潤吉は、初代と共に足尾銅山の経営に任じ足尾銅山鉱毒事件に遭遇、時機悪しく実父の陸奥宗光が農商務相在任中だったため一層激しい批判に晒され、心労がたたって同年中に没した。初代古河市兵衛の実子古河虎之助が古河潤吉に入嗣する形で家督を継ぎ、虎之助改め三代目古河市兵衛の代に古河財閥は大発展し三井・三菱・住友を脅かす存在に成長した。
陸奥宗光と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
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戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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