中国作品の模写を脱して日本風水墨画を確立し『四季山水図』『秋冬山水図』『破墨山水図』『慧可断臂図』『天橋立図』など国宝6点と数多の重文作品を遺した日本画壇の巨星
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
雪舟
1420年 〜 1506年
80点※
雪舟と関連人物のエピソード
- 狩野永徳は、祖父の狩野元信が興した職業画家集団「狩野派」を引継ぎ織田信長・豊臣秀吉に寵遇され安土城・大坂城・聚楽第の障壁画や『聚光院障壁画(国宝)』『唐獅子図屏風(国宝)』『洛中洛外図屏風(国宝)』『檜図屏風』を制作した安土桃山文化の旗手、孫の狩野探幽が徳川幕府の御用絵師となり子孫は幕末まで日本画壇に君臨した。初代の狩野正信は、漢画(水墨画)の妙技を将軍足利義政に見出され宗湛(雪舟も師事した天章周文の後継者)の死に伴い室町幕府御用絵師となり慈照寺銀閣の障壁画を制作した。子の狩野元信は、中国伝来の水墨画に日本古来の大和絵の画法を取入れて書院造に合う障壁画の和漢融合様式を確立し、書体に倣い真・行・草の3画体を定め分業による大量均質制作体制を構築、多くの画工を擁して「狩野派」を興し旺盛な戦国城郭の建築需要に乗って宮廷絵所預の大和絵土佐派(創始者の土佐光信は元信の舅とも)と画壇を二分する勢力へ躍進した。23歳の若さで『聚光院障壁画』を描いた狩野永徳は、武家好みの豪快な画風を織田信長に愛され安土城天守閣の障壁画を描く栄誉に浴し『洛中洛外図屏風』は上杉謙信に贈られ両家の和親に貢献(米沢市上杉博物館に現存)、豊後の大友宗麟に招かれ臼杵丹生島城の障壁画も制作した。『唐獅子図屏風』は豊臣秀吉の「中国大返し」の際に講和の証として毛利輝元に贈られ、明治期に毛利元徳が皇室に献上したといわれる。狩野永徳は、織田家の天下を奪った豊臣秀吉にも重用され息つく間もなく大坂城・聚楽第・内裏・八条宮家の障壁画を描いたが奔命に疲れ東福寺法堂の天井画を制作中に47歳で過労死、永徳を代表すべき超大作の安土城・大坂城・聚楽第の障壁画は惜しくも建物と共に失われた。孫の狩野探幽は徳川幕府の御用絵師に採用され江戸城・大坂城・名古屋城・二条城の障壁画を手掛け子孫は「奥絵師」4家を筆頭に幕末まで日本画壇を支配し尾形光琳・円山応挙も初期には狩野派に学んだが、大量均質生産のため次第に芸術的創造性を失い狩野派から再び異能の画才が現れることはなかった。
- 大内氏は、6世紀に渡来した朝鮮王族(百済聖明王の子琳聖太子とも任那爾利久牟王とも)の末裔で、上陸地の周防多々良浜に因んで多々良姓を称し、住地の周防吉敷郡大内村(山口近郊)から名字を採り、平安末期には周防の支配者となった。9代目の大内弘世は南朝から足利尊氏・北朝に帰順して防府・周防の守護職を獲得し本拠を山口へ移転、次の大内義弘は九州探題今川了俊に従軍して南北朝合一に貢献し日明・朝鮮貿易の元締となって富強を飛躍的に増大させ周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6カ国を領する守護大名となった。室町期の大内氏は幕府の干渉で家督争いが頻発し北九州を巡る大友氏・少弐氏との抗争で衰えたが、14代目の大内政弘(妻は山名宗全の養女)は応仁の乱で西軍主力として活躍し周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸を支配圏に収め、大内教幸の反乱を討平し権臣の陶弘護を謀殺して家中を掌握した。政弘の嫡子大内義興は、挙兵上洛して足利義稙を将軍に復位させ管領代・山城守護を兼ねたが、尼子経久に領国を脅かされて山口へ帰還、尼子軍を破って安芸・備後を制圧した後に病没した。義興は冤罪で誅殺した内藤弘矩の娘を娶り、嫡子義隆をもうけた。娘は重臣の吉見隆頼(のち弟の正頼へ再嫁)、細川持隆(阿波守護)、足利義維(堺公方)などに嫁がせ、大友義鑑に嫁いだ娘は宗麟・義長を産んだ。大内義隆は、京都を凌ぐ文化都市に発展した山口で大内氏の全盛期を謳歌したが、重臣(元男色相手)の陶晴賢の謀反で嫡子義尊と共に殺害され戦国大名大内氏はあっけなく滅亡、陶は大内義長を傀儡当主に担ぎ大内家を簒奪したが主従共に毛利元就に滅ぼされた。宗麟の後方撹乱策に利用され毛利氏に討たれた大内輝弘は政弘の次男高弘の子(義興の甥)である。大内政弘・義興・義隆の嫡流は断絶したが、10代義弘の次男大内持盛の子孫が生残り、故地に因んで山口に改姓した重政が名家を惜しむ徳川家康に拾われて常陸国牛久1万5千石の藩主となり幕末まで存続した。
- 大内義興は、日明・朝鮮貿易を牛耳って周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸を支配し文化都市山口で栄華を誇った大内氏絶頂期の当主、挙兵上洛して室町幕府を掌握するが尼子経久の台頭で撤退、陶晴賢の謀反で嫡子義隆が滅ぼされ遺領は晴賢を討った毛利元就が奪取した。応仁の乱で西軍主力として戦い6カ国の太守となった大内政弘の嫡子で、1495年に権臣の内藤弘矩・陶武護(晴賢の兄)を排除して18歳で家督を継ぐと、豊後の大友政親を捕殺し(大友氏の懐柔には失敗し家督は反対派の大友親治=宗麟の祖父が承継)、筑前の少弐政資・高経父子も討滅し父祖の宿敵を除いた。1499年管領細川政元と南近江守護六角高頼に追われた前将軍足利義稙を山口に匿い、西国28大名に朝敵義興討伐の号令が下るが大友・少弐連合軍を撃退して筑前・豊前を防衛し毛利弘元(元就の父)ら安芸国人も掌握、1508年細川政元暗殺後の家督争い(永正の錯乱)に乗じて挙兵上洛し、将軍足利義澄・細川澄元(晴元の父)・三好之長(長慶の祖父)ら阿波勢を追払って幕政を掌握、足利義稙の将軍復位と細川高国の細川宗家相続を実現させ、自身は管領代・山城守護の官職と日明貿易の恒久的管掌権限を獲得した。1511年阿波勢に京都を奪還されたが、旗印の足利義澄が病没し後ろ盾の六角高頼も寝返るなか決戦を挑んだ阿波勢を洛北で撃滅、総大将の三好政賢まで討取り澄元・之長を阿波へ敗走させたが(船岡山合戦)、管領細川高国との確執が深まり、尼子経久が石見西半を奪って安芸に侵入すると1518年大内義興は帰国を決断した。畿内では阿波勢が盛返し細川高国は朝倉宗滴を招じ入れて対抗したが1531年大物崩れで討取られ最終的に三好長慶の天下となった。大内義興は、安芸・石見戦線で尼子勢に圧されたが、独立を期す毛利元就の寝返りを誘って押返し、1527年備後に出陣した尼子経久を山名氏と同盟して撃退し備後・安芸を制圧した(細沢山の戦い)。大内義興はその2年後に病没、嫡子の義隆は全盛期を謳歌するが堕落し1543年月山富田城の大敗を機に暗転、1551年重臣の陶晴賢に殺害され名門大内氏は滅亡、その晴賢も毛利元就に滅ぼされた。
- 細川藤孝は、没落した和泉上守護家の当主で常に勝者に属し肥後熊本藩54万石の開祖となった政界浮遊の達人である。将軍足利義晴・細川晴元に従い三好長慶に所領を奪われた細川元常の死後、甥の細川藤孝(義晴落胤説あり)は嫡子晴貞から家督を奪い、三淵晴員・藤英(実父・兄)と共に将軍家を支え、足利義輝弑逆後は弟の足利義昭を救出して若狭武田氏・越前朝倉氏を頼り、1568年新参の明智光秀と共に織田信長に帰服し幕府再興に働いた。が、1571年将軍義昭が恩人を裏切り信長包囲網に加担、1573年武田信玄上洛の尻馬に乗って挙兵に及ぶと細川藤孝は明智光秀・荒木村重と共に義昭を見限って信長に臣従し、京都長岡と勝竜寺城を与えられ岩成友通討伐に参陣した。遅れて降伏した三淵藤英・秋豪父子は信長に誅殺された。細川藤孝は、上司明智光秀の娘ガラシャを嫡子忠興の妻に迎え、光秀の旗下で畿内平定戦から丹波攻略、松永久秀討伐と東奔西走、1579年波多野秀治・赤井直正を滅ぼし丹波平定が成ると光秀は近江坂本に丹波を加増され、若狭計略を担当した藤孝は若狭守護一色義道を討ち丹後南半11万石を与えられ宮津城に入った。1582年本能寺の変が勃発、光秀に出陣を促された細川藤孝は剃髪隠居して家督を忠興に譲り(幽斎玄旨と号す)ガラシャを幽閉して日和見を決込み、まさかの裏切りで気勢を削がれた光秀は豊臣秀吉に敗れ滅亡(山崎の戦い)、藤孝は早速秀吉に帰順し娘婿の一色義定を討って丹後を平定し清洲会議で加増を受けた。耄碌した秀吉が千利休・豊臣秀次を殺すと両人に近い細川忠興は切腹も取沙汰されたが徳川家康に救われ、秀吉没後直ちに家康に帰服し丹後12万石に豊後杵築6万石を加増された。1600年関ヶ原の戦いが起ると、大坂屋敷のガラシャは石田三成に襲われ自害、忠興は弔い合戦で武功を挙げ豊前中津39万9千石へ加転封となった。丹後田辺城の細川藤孝は西軍に囲まれ討死を覚悟したが、歌道「古今伝授」伝承者の死を惜しむ弟子達が奔走し後陽成天皇の勅命により降伏、戦後救出され京都で悠々自適の余生を送った。細川家は忠興の後嗣忠利の代に肥後熊本54万石へ加転封となり現代の細川護熙まで繁栄を続ける。
- 千利休(千宗易)は、堺の豪商出身の侘茶の完成者で見方によっては大山師、茶頭として織田信長に出仕し本能寺事変後は豊臣秀吉に仕え「利休道具」の錬金術と「一期一会」の接待術で大名統治に貢献するが突如逆鱗に触れて死罪、子孫の「三千家」は上流社会に憧れる庶民を惹きつけ全国に鼠講を張巡らせて本願寺と並ぶ巨大教団に発展し今日まで繁栄を続ける。魚問屋に倉庫業を兼ね一代で財を成した田中与兵衛(千氏へ改姓)の嫡子で、北向道陳・武野紹鴎に師事して茶の湯を研鑽し、堺南宗寺(大徳寺の末寺)に入門して臨済禅の修行を積んだ。共に茶の湯の「天下三宗匠」と称された今井宗久・津田宗及は紹鴎門下の相弟子である。三好長慶の妹とされる宝心妙樹を妻に迎えたのは自治都市堺を守るための政略であったと考えられるが、1569年織田信長が堺から自治権を取上げると茶頭として出仕し、1582年信長の横死に伴い豊臣秀吉の茶頭に転身、二束三文の粗末な茶器を名器に仕立てる錬金術と侘茶接待で頭角を現し、秀吉は利休を持て囃し「利休道具」に更に箔を付けて諸大名に与える好循環を演出、天下人の寵を得た千利休は「利休七哲」(蒲生氏郷・細川忠興・芝山宗綱・古田織部・高山右近・瀬田正忠・牧村利貞)を筆頭に諸大名から崇敬を集め豊臣政権の内政にも深く関わった。「黄金の茶室」や聚楽第など成金趣味に奔る秀吉に美意識上の葛藤を抱きつつも、妙喜庵待庵に代表される草庵風茶室(下地窓・連子窓や躙口をあけた二畳の茶室)を完成させ楽茶碗や竹の花入・茶柄杓・茶杓などの道具、作庭にも工夫を凝らして侘茶の境地を開いた。が、1591年突如秀吉から堺に蟄居を命じられ、弟子の大名連や前田利家の助命嘆願も虚しく上杉景勝の兵に京都聚楽屋敷を囲まれるなか従容と切腹に応じ、首は一条戻橋に晒された。「大徳寺三門の利休像」など動機には諸説あるが、側近を牛耳りたい石田三成が耄碌した秀吉を煽り事を運んだ可能性が高い。数年後に秀吉は利休の遺族を赦免、嫡子の千道安は細川忠興に仕えたが後嗣無く病没し、利休婿養子の千少庵が家督を継いで京都に住し嫡子千宗旦の三児が武者小路千家・表千家・裏千家の祖となった。
雪舟と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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