愛媛県の片田舎から生理用品・紙オムツ市場を制覇した「ユニ・チャーム」創業者、自身はバブルに躓くが2代目社長を継いだ長男高原豪久がアジア進出を成功させ国際企業へ脱皮
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
高原 慶一朗
1931年 〜 年
50点※
家系・子孫
- 高原慶一朗は愛媛県川之江市(現四国中央市)出身、大阪市立大学商学部を卒業し関西紙業での修行を経て家業「国光製紙」の専務に就任、お家騒動のためか1961年30歳で建材加工の「大成化工」を興したが、生理用品生産へ転じ「ユニ・チャーム」の創業者となった。大成化工からユニ・チャームへ改称した1974年に高原慶一朗は国光製紙の経営を引継ぎ、国光製紙は川之江市で細々と不織布生産を続け2009年「ユニ・チャームマテリアル」と合併し「ユニ・チャーム国光ノンヴーヴン」となった。ユニ・チャームは日本の生理用品市場を制しベビー・高齢者市場を開拓したが、高原慶一朗はバブル投資で躓き2001年70歳で長男の高原豪久に社長を禅譲、2008年代表権の無い取締役会長へ退き、2011年会長も辞し取締役ファウンダーとなった。川之江市に育った高原慶一朗は成城大学経済学部へ進学し、三和銀行での修行を経て30歳でユニ・チャームに入社、4年後に取締役となり39歳の若さで巨大企業の社長に就任した。社長交代を決議する株主総会の直前、高原豪久は高原慶一朗から「おまえのせいで株価が下がるんじゃ!」と罵倒されたというが、創業者と古参幹部に囲まれつつリストラとアジア進出を成功させユニ・チャームは国際企業へ発展、2015年株価は最高値を更新した。
高原慶一朗と同じ時代の人物
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
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戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
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