吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
高杉晋作の寸評
高杉晋作の史実
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1839年
長州藩の中級藩士高杉小忠太の嫡子高杉晋作が萩城下にて出生
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1840年
アヘン戦争(~1842)
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1842年
異国船打払令を緩和し薪水給付令施行
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1846年
高杉晋作が吉松淳蔵の家塾へ通う
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1848年
高杉晋作が天然痘を患う
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1850年
井伊直亮が死去し弟の井伊直弼が15代彦根藩主に就任、藩政改革に着手し譜代筆頭として幕政に乗出す
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1851年
吉田松陰が東北旅行へ出奔、手続き不備のため脱藩の罪を得る
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1852年
江戸桜田藩邸に戻った吉田松陰が萩へ召還され脱藩罪により士籍・家禄剥奪のうえ杉百合之助の「育み」とされる
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1852年
高杉晋作が藩校明倫館に就学、長州藩剣術師範の内藤作兵衛より柳生新陰流の免許皆伝を受ける
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1852年
彦根藩主井伊直弼が長野主膳を知行150石で藩士に召抱え藩校弘道館の国学教授に任じる
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1853年
[ペリー来航]マシュー・ペリー艦隊が浦賀に来航、フィルモア米大統領の親書交付
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1853年
吉田松陰が藩主毛利敬親に上書し長州藩の国防論を提言
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1853年
攘夷を決意する吉田松陰が京阪で梁川星厳・梅田雲浜と会談し江戸で長州藩主毛利敬親に『海戦策』を上書
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1854年
ペリー艦隊が再来航し日米和親条約締結(蘭露英仏と続く安政五ヶ国条約)、吉田松陰がアメリカ船での海外密航を企てるが失敗し自主して伊豆下田の牢に投獄される
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1854年
吉田松陰が江戸伝馬町の獄舎で取調べを受け幕府より自藩幽閉を命じられる
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1854年
吉田松陰が罪人として萩へ護送され野山獄に投獄される
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1855年
長州藩主毛利敬親の温情により吉田松陰が病気保養の名目で野山獄を出され実家の杉家で閉門蟄居
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1856年
アロー号事件(~1860)~英仏連合軍が仕掛けた第二次アヘン戦争
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1856年
長州藩主毛利敬親の尊攘方針により周布政之助らが要路に就く
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1856年
萩郊外の松本村で蟄居する吉田松陰のもとへ近郷の若者が参集し私塾となる
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1857年
吉田松陰の門人が増えたため杉家邸内に塾舎を設置し(松陰神社内に現存)叔父の玉木文之進から「松下村塾」の塾名を承継
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1857年
久坂玄瑞が松下村塾に入門、吉田松陰は妹の文を愛弟子の久坂に嫁がせる
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1857年
高杉晋作が吉田松陰の松下村塾に入門
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1858年
伊藤博文が主人来原良蔵の紹介で吉田松陰の松下村塾に入門、来原の長崎出張に随行
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1858年
木戸孝允が長州藩に出仕し大検使となり江戸番手を命じられる
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1858年
大村益次郎が長州藩江戸藩邸に招かれ兵学書を講義、木戸孝允は大村を長州藩へスカウト
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1858年
吉田松陰が長州藩庁に度々上書し藩政改革を提言、若手藩士の遊学や軍制改革の諸献策が容れられ松下村塾が活気付く(松陰の後押しで多くの塾生が遊学を許される)
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1858年
長州藩庁が吉田松陰に家学教授の許可を与え松下村塾が公認となる
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1858年
老中首座堀田正睦が条約勅許取得に失敗(岩倉具視・大原重徳らの廷臣八十八卿列参事件)
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1858年
井伊直弼が大老に就任、一橋派の粛清が始まる(安政の大獄)
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1858年
破約攘夷を主張する吉田松陰が長州藩主毛利敬親に度々上書、周布政之助ら藩政府首脳と対立
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1858年
久坂玄瑞が梅田雲浜・梁川星厳らと連携し京都で尊攘運動を開始
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1858年
高杉晋作が『益田弾正君にたてまつるの書』を著す
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1858年
幕府が日米修好通商条約に無勅許調印、英仏蘭露とも同様(安政五カ国条約)
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1858年
高杉晋作が文学修行の名目で江戸遊学を許される
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1858年
山縣有朋が2ヶ月の京都・江戸外遊を許され長州に戻り松下村塾に入門(吉田松陰の最後の門人)
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1858年
梅田雲浜らの工作により朝廷が条約撤廃・一橋派諸侯の復権を促す「戊午の密勅」を水戸藩・幕府・長州藩へ下す
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1858年
高杉晋作が昌平坂学問所に入学
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1858年
大老井伊直弼の意を受けた老中間部詮勝が入洛し安政の大獄を断行
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1858年
吉田松陰盟友の梅田雲浜が幕府に逮捕され翌年獄死(拷問死とも)
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1858年
吉田松陰が公然と老中間部詮勝要撃計画を策動
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1858年
吉田松陰が野山獄に再投獄され松下村塾は廃止
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1859年
神奈川・長崎・函館開港
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1859年
吉田松陰が獄中で反幕府運動を画策、高杉晋作・久坂玄瑞の諫止に逆ギレ
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1859年
獄中の吉田松陰が長州藩討幕挙兵を画策するが挫折
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1859年
吉田松陰が幕命で江戸に召喚され評定所の尋問を受ける
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1859年
高杉晋作が藩命で萩へ召還され帰国の途につく
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1859年
吉田松陰が老中間部詮勝襲撃計画を自白し江戸小塚原刑場にて斬首(享年30)、江戸に居た木戸孝允・伊藤博文らが小塚原に埋葬
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1860年
清が英仏露と北京条約締結、半植民地化が決定的に
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1860年
高杉晋作が萩で平井雅と結婚
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1860年
高杉晋作が海軍を志し萩の軍艦教授所に入学
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1860年
桜田門外の変~徳川斉昭の意を受けた水戸浪士らが江戸城桜田門外で大老井伊直弼を暗殺(享年48)
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1860年
高杉晋作が藩命により長州藩の軍艦丙辰丸に乗組み江戸へ航行、失策を犯し海軍を断念
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1860年
長州藩と水戸藩が幕政改革の盟約(成破の盟約)
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1860年
高杉晋作が関東を巡歴し萩へ帰国
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1860年
高杉晋作が藩校明倫館の都講に任じられる
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1860年
ロシア軍艦が対馬に侵攻するがイギリスの圧力で退去
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1860年
宇和島藩士で幕府講武所教授の大村益次郎が木戸孝允の招聘で故郷の長州藩へ転籍、最先端の西洋知識で洋式軍制改革を推進
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1861年
高杉晋作が長州藩世子毛利定広の小姓役に任じられ江戸出府に随う
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1861年
尊攘運動に目覚めた武市半平太が土佐藩庁に願出て江戸出向、薩長の志士と交流し久坂玄瑞に感化される
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1861年
武市半平太が土佐藩郷士を糾合し土佐勤皇党を結成、坂本龍馬・中岡慎太郎・吉村寅太郎・岡田以蔵ら192人が加盟
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1861年
和宮降嫁の勅許、薩長土の尊攘派志士が三藩主上洛を約束
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1861年
武市半平太が帰国、破約攘夷への藩論転換運動
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1861年
長井雅楽の航海遠略策が藩論となり長州藩が公武周旋に乗出すが吉田松陰門下の木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞らは猛反対
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1861年
長州藩世子毛利定広が高杉晋作に幕府使節に参加し外国視察へ出るよう命令
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1862年
高杉晋作が幕府蒸気船千歳丸で長崎へ入り情勢を視察
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1862年
坂下門外の変~水戸浪士が老中安藤信正を襲撃
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1862年
和宮降嫁~孝明天皇妹宮の和宮親子内親王と将軍徳川家茂の婚礼
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1862年
武市半平太の土佐勤皇党が佐幕派の執政吉田東洋を暗殺し藩政を掌握、土佐藩主山内容堂は怒りを堪え黙認
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1862年
長州藩が長井雅楽の「航海遠略策」を朝廷に建白するが老中安藤信正の失脚により公武周旋を断念、長井は失脚し木戸孝允・久坂玄瑞ら尊攘派が優勢となる
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1862年
高杉晋作が幕府使節の随員として上海へ渡航
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1862年
薩摩藩の島津久光が率兵江戸入りし幕政改革を断行(文久の改革)・謀臣の大久保利通と小松帯刀が暗躍、徳川慶喜を将軍後見職・松平春嶽を政治総裁職にねじ込む
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1862年
長州藩が薩摩藩の公武合体運動に対抗すべく航海遠略策を放棄し破約攘夷へ転換
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1862年
久坂玄瑞・武市半平太らの工作により長州藩世子毛利定広が勅旨を奉じて江戸へ下り幕府に将軍上洛と攘夷決行を督責
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1862年
生麦事件~薩摩藩主島津忠義・久光の行列がイギリス人を殺傷
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1862年
高杉晋作が藩命により長州藩世子毛利定広が滞在する江戸へ出向
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1862年
武市半平太の工作により土佐藩主山内豊範が京都へ立寄り国事周旋の勅命を受ける
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1862年
京都で攘夷派志士による天誅事件が頻発
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1862年
武市半平太・久坂玄瑞の工作により朝廷が攘夷督促と親兵提供を命ずる勅使(正使三条実美)を江戸へ派遣、土佐藩主山内豊範が供奉
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1862年
高杉晋作が学習院用掛に任じられる
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1862年
公武合体運動に失望し「防長割拠論」を説く高杉晋作が江戸藩邸で長州藩世子毛利定広に上書し脱藩騒ぎを起す
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1862年
久坂玄瑞が江戸入り、長土連携のため世子毛利定広と山内容堂の酒宴をアレンジ
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1862年
平井収二郎・中岡慎太郎土佐勤皇党の「五十人組」が東上
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1862年
高杉晋作・久坂玄瑞・井上馨・伊藤博文ら長州藩士が神奈川外人襲撃を企てるが土佐藩の横槍で中止
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1862年
高杉晋作・久坂玄瑞・井上馨・伊藤博文ら長州藩士がイギリス公使館焼き討ち
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1862年
会津藩主松平容保が京都守護職として入洛
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1863年
伊藤博文・山尾庸三が江戸で国学者の塙次郎(保己一の子)を暗殺
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1863年
京都守護職松平容保の配下に壬生浪士組(新撰組)結成
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1863年
高杉晋作・伊藤博文らが吉田松陰の遺骸を掘出し世田谷若林に改葬
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1863年
長州藩で久坂玄瑞・木戸孝允・高杉晋作ら尊攘派が実権を掌握し公武合体派の長井雅楽が自害
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1863年
長州藩・土佐藩の圧力により将軍徳川家茂が初の上洛、朝廷に5月10日の攘夷決行を約束
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1863年
松平春嶽が徳川慶喜の専横に怒り政治総裁職を辞任し福井に帰国
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1863年
高杉晋作が長州藩世子毛利定広の命で上京するが同志から孤立し江戸へ出奔、学習院用掛の辞任と10年の暇を許され剃髪して東行と号す
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1863年
久坂玄瑞が長州に戻り入江九一・吉田稔麿・山縣有朋ら松下村塾生を糾合し光明寺党を結成
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1863年
長州藩が外国船を砲撃し攘夷決行(下関事件)、首謀者の久坂玄瑞は光明寺党を率い獅子奮迅の活躍
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1863年
高杉晋作が長州藩主毛利敬親に召喚され馬関の防御を一任される
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1863年
青蓮院宮から令旨の一件を聞いた山内容堂が土佐へ戻り吉田東洋暗殺犯の捜索と土佐勤皇党の粛清を開始
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1863年
長州藩の伊藤博文・井上馨・山尾庸三・野村弥吉・遠藤謹助がイギリス留学(長州ファイブ)
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1863年
長州藩の高杉晋作が奇兵隊を創設、一流蘭学者の大村益次郎が長州藩諸隊の洋式軍制改革・軍備増強を推進
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1863年
高杉晋作が政務座役・奇兵隊総管に任じられる
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1863年
高杉晋作の奇兵隊が下関の前田砲台を再建し対岸の小倉藩領田の浦を占拠し砲台を建設
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1863年
高杉晋作が選鋒隊の編成など長州藩正規兵の改革を行う
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1863年
朝陽丸事件
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1863年
尊攘派公卿の姉小路公知が暗殺される
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1863年
攘夷親征計画(大和行幸)
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1863年
福井藩の松平春嶽・横井小楠が挙藩上洛計画を企てるが中根雪江ら守旧派の反対で決行直前に中止
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1863年
中山忠光・吉村寅太郎らによる大和天誅組の変
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1863年
薩英戦争~イギリス艦隊による生麦事件の報復
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1863年
八月十八日の政変~薩摩藩・会津藩が長州藩を追放し久坂玄瑞・木戸孝允・武市半平太らの破約攘夷運動が瓦解
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1863年
島津久光の建議により参預会議発足~公武合体論の実現
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1863年
教法寺事件、奇兵隊総管の高杉晋作が政務座役を罷免される
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1863年
山内容堂が武市半平太ら土佐勤皇党幹部を投獄
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1863年
中岡慎太郎が七卿落ちの情勢を探るため周防三田尻へ出向
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1863年
三条実美ら七卿が在所する周防三田尻の招賢閣に尊攘派浪士が参集、真木和泉・宮部鼎蔵・中岡慎太郎の指揮で活発に尊攘運動を展開
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1863年
長州藩で俗論党が盛返すが高杉晋作が奇兵隊を小郡へ転陣し山口政庁を威嚇、高杉と久坂玄瑞が政務座役に就く(高杉は奇兵隊総管を退き河上弥市・滝弥太郎に託す)
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1863年
高杉晋作が新知160石を加増され奥番頭に任じられる
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1863年
河上弥市・平野国臣らによる生野の変
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1863年
長州藩で世子毛利定広の上洛決定、真木和泉の扇動により出兵論が過熱
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1863年
土佐浪士の中岡慎太郎が上京し長州藩復権運動
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1863年
長州藩尊攘派が俗論党の坪井九右衛門を逮捕し野山獄で処刑
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1864年
高杉晋作が暴発寸前の遊撃軍の制止に赴くが来島又兵衛に妨害され二度目の脱藩事件を起し上方へ出奔
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1864年
高杉晋作が来島又兵衛・久坂玄瑞らの激発を抑えるべく京都で長州藩復権運動、島津久光要撃を企てる
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1864年
長州藩が高杉晋作を召還し脱藩罪により野山獄へ投獄
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1864年
参預会議が瓦解し公武合体運動が挫折
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1864年
参預会議瓦解を受けて久坂玄瑞が長州藩庁に即時出兵を進言
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1864年
徳川慶喜が将軍後見職を辞して江戸幕府を離れ禁裏御守衛総督となり京都政局を牛耳る
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1864年
天狗党の乱~武田耕雲斎ら水戸尊攘派の暴発と瓦解
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1864年
伊藤博文・井上馨がイギリス留学から急遽帰国、横浜でオールコック英公使より藩主宛親書を授かり長州藩で不戦工作
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1864年
池田屋事件
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1864年
長州藩世子毛利定広の上洛・出兵に最後まで反対した周布政之助が逼塞に処される
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1864年
来島又兵衛の遊撃軍300人が上方へ発進し久坂玄瑞・真木和泉が率いる諸隊が続く
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1864年
高杉晋作が出獄を許され自宅座敷牢へ移される
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1864年
禁門の変、久坂玄瑞が京都鷹司邸にて自刃(享年25)
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1864年
徳川慶喜が長州追討の勅命を得て第一次長州征討を決行
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1864年
馬関戦争~英仏蘭米の四国連合艦隊が下関を攻撃し長州藩を降伏させる
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1864年
長州藩主毛利敬親から全権委任された高杉晋作が有利な条件で馬関戦争の講和を実現、高杉は政務座役に復帰するがすぐに辞任
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1864年
西郷隆盛が勝海舟に会い長州藩への融和路線に転換
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1864年
長州藩で俗論党(佐幕恭順派)が主導権を握り正義派(尊攘派)を粛清、絶望した周布政之助が山口にて自殺(享年42)
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1864年
中岡慎太郎が長州藩諸隊(浪士隊)の忠勇隊総督となる
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1864年
長州藩恭順により第一次長州征討が停戦・征長軍全権に任じられた西郷隆盛が宥和路線を主導
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1864年
中岡慎太郎が五卿遷座の周旋工作、西郷隆盛ら薩摩藩士と連携
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1864年
高杉晋作の嫡子に高杉東一が出生
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1864年
俗論党政府が奇兵隊ら諸隊の解散を命令、諸隊は結束して従わず
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1864年
高杉晋作が萩を脱出し筑前へ亡命
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1864年
長州藩恭順により第一次長州征討が停戦・征長軍全権に任じられた西郷隆盛が宥和路線を主導
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1864年
高杉晋作が長州へ舞戻り長府に駐屯する諸隊に決起を促す
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1864年
高杉晋作が前原一誠・中岡慎太郎の遊撃隊60人・伊藤博文の力士隊30人のみで功山寺挙兵を決行(奇兵隊の山縣有朋らは日和見)
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1865年
高杉晋作率いる諸隊が大田・絵堂の戦いに勝利し正義派が長州藩の政権を奪回
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1865年
高杉晋作が西欧渡航の許可を得て伊藤博文と共に長崎へ
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1865年
高杉晋作・伊藤博文が長崎でグラバーから第二次長州征討の動きを聞き長州へ帰還
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1865年
高杉晋作・伊藤博文・井上馨が西欧列強を抱込むため下関開港を策動するが攘夷派に狙われ高杉は四国へ・井上は豊後別府へ逃避
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1865年
禁門の変で失踪した木戸孝允が長州藩に戻り藩政を掌握
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1865年
木戸孝允が馬関開港を白紙撤回して長府藩を抑え高杉晋作・井上馨を長州へ呼戻す
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1865年
徳川慶喜の策動により将軍徳川家茂が上洛し第二次長州征討を号令
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1865年
高杉晋作が第二次長州征討に備えるべく戦時物資調達の責任者に就任、井上馨・伊藤博文を長崎へ派遣
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1865年
俗論党首領の椋梨藤太が野山獄で斬首される
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1865年
西郷隆盛が鹿児島へ戻り藩主父子に情勢を報告、同伴した坂本龍馬に薩長同盟の密計を託し小松帯刀主導で亀山社中を設立
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1865年
長州系土佐浪士の中岡慎太郎・土方久元が上京して薩摩屋敷に滞在し薩長和解工作
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1865年
薩摩系土佐浪士の坂本龍馬が長州藩で薩長和解工作
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1865年
山内容堂が不敬罪で武市半平太を切腹させ(享年37)土佐勤皇党が壊滅
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1865年
長州藩が亀山社中を介して大量の洋式兵器とユニオン号を購入
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1865年
西郷隆盛が下関での木戸孝允との会談をドタキャン、薩長和解工作のため黒田清隆を長州へ派遣
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1865年
中岡慎太郎が京都で西郷隆盛に薩長和解工作、田中顕助・那須盛馬・大橋慎三(元長州藩忠勇隊士)らと会盟
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1865年
高杉晋作・井上馨が長州の藩論を薩長和解に纏め木戸孝允を京都へ送出す
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1866年
薩長同盟
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1866年
坂本龍馬が伏見寺田屋で幕吏に襲われ負傷、鹿児島へ逃れる
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1866年
上海渡航を志す高杉晋作が伊藤博文を伴い長崎へ出向、長州藩庁に無断で丙寅丸を購入
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1866年
徳川慶喜の策動により将軍徳川家茂が上洛し兵6万を率いて第二次長州征討開始(四境戦争)、薩摩藩は公式に出兵を拒絶
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1866年
高杉晋作が長州藩海軍総督に任じられる
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1866年
薩摩藩が幕府からの再三の出兵要請を拒否し朝廷に長州再征反対を建白
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1866年
坂本龍馬がユニオン号に乗り長州藩の小倉渡海作戦に参加
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1866年
高杉晋作が大島口奇襲で勝利
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1866年
大村益次郎が浜田城制圧
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1866年
高杉晋作が馬関口陸海軍参謀に任じられる
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1866年
高杉晋作の活躍で老中小笠原長行が守る小倉城が陥落し長州藩の勝利が決定的となる(高杉は肺結核が悪化し翌年病没)
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1866年
将軍徳川家茂が大阪城で急死し徳川慶喜が徳川宗家の家督を相続、自身の長州大討入りを宣言するが小倉城陥落を知り断念
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1866年
徳川慶喜が朝廷から征長停止の勅令を獲得し幕府敗北・長州藩勝利で四境戦争終結、勝海舟が安芸厳島に乗込み停戦交渉
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1866年
徳川慶喜が15代将軍就任
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1866年
孝明天皇崩御
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1867年
徳川慶喜が各国公使に兵庫開港を宣言、幕府は勢いを盛返すが警戒を強める薩長首脳は討幕へ傾く
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1867年
中岡慎太郎が幕府の動向視察のため上京、土佐藩に藩政改革案を示し薩摩藩の西郷隆盛を紹介
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1867年
孝明天皇崩御に伴う大赦で長州系の三条実美ら五卿のほか九条尚忠・岩倉具視ら公卿が赦免される
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1867年
高杉晋作が長州藩より100石を賜り谷潜蔵へ改名し別家を立てる
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1867年
高杉晋作が下関にて死去(享年27)、下関郊外吉田の清水山に埋葬される
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1891年
吉田松蔭・高杉晋作・久坂玄瑞・周布政之助・武市半平太・中岡慎太郎・坂本龍馬・吉村寅太郎・平野国臣・有馬新七・宮部鼎蔵ら明治維新の功労者に追贈正四位(有馬のみ従四位)
高杉晋作の交遊録
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毛利敬親
主君にして良き理解者
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毛利定広
敬親養嗣子の長州藩世子・小姓として臣従
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吉松淳蔵
寺子屋の先生
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内藤作兵衛
剣術の先生
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吉田松陰
大師匠
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久坂玄瑞
松下村塾の双璧
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吉田稔麿
松下村塾の四天王
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入江九一
松下村塾の四天王
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伊藤博文
松下村塾生・高杉舎弟
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山縣有朋
松下村塾生・奇兵隊後任
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前原一誠
松下村塾生・功山寺挙兵の同志
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品川弥二郎
松下村塾生
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山田顕義
松下村塾生
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赤根武人
松下村塾生の裏切り者
-
寺島忠三郎
松下村塾生
-
野村和作
入江弟
-
富永有隣
松陰舎弟
-
木戸孝允
松蔭門下の兄貴分
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大村益次郎
木戸舎弟
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井上馨
高杉舎弟
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周布政之助
正義派首領
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長井雅楽
正義派だが政敵
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滝弥太郎
奇兵隊後任
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河上弥市
親友で奇兵隊後任・生野の変で戦死
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来島又兵衛
困った過激派
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浦靱負
正義派家老
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益田弾正
正義派家老
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椋梨藤太
俗論党首領
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宮部鼎蔵
松陰の親友
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梅田雲浜
貧乏同志
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加藤有隣
水戸の先輩
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佐久間象山
松陰の師匠
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横井小楠
唯一無二の士
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三条実美
長州系公卿
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姉小路公知
長州系公卿
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岩倉具視
「四奸二嬪」の政敵
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真木和泉
困った扇動家
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平野国臣
困った扇動家
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山内容堂
武市を殺した土佐国主
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武市半平太
土佐勤皇党首領・久坂の盟友
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吉村寅太郎
土佐浪士・久坂の盟友
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坂本龍馬
薩摩系土佐浪士
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中岡慎太郎
長州系土佐浪士
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島津久光
薩摩藩国父・襲撃を企てた政敵
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西郷隆盛
薩長同盟のパートナー
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大久保利通
薩長同盟のパートナー
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小松帯刀
薩長同盟のパートナー
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有馬新七
薩摩の過激派
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井伊直弼
松蔭の仇
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徳川家茂
「いよ、征夷大将軍!」
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徳川慶喜
長州征討の戦争相手
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松平春嶽
慶喜の傅役
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松平容保
慶喜腹心の京都守護職
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松平定敬
容保実弟の京都所司代
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近藤勇
新撰組局長
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土方歳三
新撰組鬼の副長
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小笠原長行
撃破した老中小倉藩主
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勝海舟
薩長和解を勧めた幕臣
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キューバ
講和交渉した連合国軍提督
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グラバー
出入りの武器商人
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日柳燕石
寄寓した讃岐の侠客志士
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野村望東尼
心の恋人
高杉晋作と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
吉田 松陰
1830年 〜 1859年
100点※
「二十一回猛士」と称して海外密航・老中襲撃・討幕挙兵を画策し松下村塾を開いて長州藩を覚醒させ門弟の高杉晋作・久坂玄瑞・木戸孝允に「狂」を植付け討幕の原動力ならしめた純粋激烈な大教育者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 120点
高杉晋作は、吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄である。維新直前に早世し他藩や朝廷との交流に批判的だったことから知名度は「維新の三傑」に及ばないが、高杉晋作なくして長州藩の復活は無く、薩長同盟の形で討幕が実現することも無かった。高杉晋作は、師匠である吉田松蔭の理論や尊攘派同志の枠から離れて独創的な防長割拠論を唱え、洋式軍備の導入に取組み、日本初の近代的民兵組織である奇兵隊などの諸隊を創設した。長州藩の同志達が公武周旋や過激な攘夷論で浮かれるなか、一人冷静に現実を見据えていた。久坂玄瑞が松陰から受継いだ草莽崛起論が禁門の変で瓦解した後、最後には自分が思い描いた通りの防長割拠を実現、高杉晋作の思想と政策は明治政府にも継承された。自我が強く天邪鬼的な性質もあったように思えるが、独創性と実現力は正に天才というべきだろう。
減点 -10点
高杉晋作は、討幕の総仕上げを見ることなく27歳で無念の死を遂げた。