裸一貫から英語を武器に日銀総裁、蔵相、首相に出世、日露戦費調達、金融恐慌沈静化とデフレ退治を果したが、二・二六事件で波乱万丈の人生を閉じた本物の「財政の第一人者」
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高橋 是清
1854年 〜 1936年
90点※
高橋是清と関連人物のエピソード
- 文明開化の時代は語学力を武器に裸一貫から立身出世を遂げた人物を多く輩出したが、高橋是清は福澤諭吉と並ぶ双璧といって良いだろう。高橋是清は江戸庶民の出自ながら不思議な幸運に恵まれ、10歳で「ヘボン塾」の学僕となり、仙台藩の給費生に選ばれ米国留学、騙されて奴隷にされるが無事に帰国すると森有礼(薩摩閥)に拾われた。放蕩癖のある高橋是清は15歳の分際で遊女のヒモとなり英語教師と官吏の職を転々したが、英語が出来れば食うに困らない時代で気侭な青春を謳歌した。森有礼が文相に就くと27歳の高橋是清は農商務省に迎えられ、語学力と行動力で特許法を完成させ特許局長に昇進したが、生来の山気が災いしてカラワクラ銀山詐欺事件に引掛り官職と全財産を失った。が「禍福は糾える縄の如し」、前田正名(農商務省の先輩でカラワクラ銀山の紹介者)から川田小一郎(三菱の大番頭→日本銀行総裁)を紹介され38歳の高橋是清は銀行家として再出発、天職を得た高橋は僅か6年で日本銀行副総裁に昇進し、日露戦争が起ると井上馨(長州閥重鎮で財界の大御所)に戦費調達の大任を託されユダヤ人大物銀行家ジェイコブ・シフとの邂逅という人生最大の幸運に恵まれて困難な外債発行を成功させた。一躍「時代の寵児」となった高橋是清は男爵に叙され(のち子爵)日銀総裁に昇進、第一次山本権兵衛内閣に蔵相で初入閣し、原敬暗殺に伴い政友会総裁を継いで首相に上り詰めた。政治(金権政治)に疎い高橋是清は政友会を陸軍長州閥の田中義一に譲り渡す愚を犯したが、「財政の第一人者」は晩年まで健在だった。金融恐慌が起ると73歳の高橋是清は蔵相に緊急登板し弟子の井上準之助と共に「モラトリアム」や紙幣増発で沈静化、世界恐慌が深刻化すると77歳で蔵相に復帰し金輸出再禁止と積極財政(満州事変後の軍事費拡大容認)でデフレ退治に成功した。日本は欧米に先駆けて世界恐慌脱却を果したが、軍事費引締めへ転じた高橋是清蔵相は軍部に恨まれ二・二六事件で殺害された。高橋是清は暗殺リストに入っていなかったが、反乱勃発時に赤坂の私邸にいるのを探知され偶発的に襲われた可能性が高く、最期の最期に不運に見舞われた。
- 「ヘボン塾」で英会話を学んだ高橋是清は、13歳のとき仙台藩の給費生に選ばれ米国留学へ出される大幸運に恵まれた。同じ船には勝小鹿(勝海舟の嫡子)も乗っていた。が、仙台藩が世話役を依頼したヴァン・リードは札付の悪徳商人で、学資を着服したうえサンフランシスコの自宅で下僕としてこき使った。反抗的な高橋是清はオークランドのブラウン家へ移されたが、リードは英語を読めない高橋を騙し3年間の奴隷契約で売却したに過ぎなかった。高橋是清は徳川幕府から名誉領事を受託していたブルークスに訴え、その仲介で奴隷契約を白紙撤回し、渡米1年後に何とか帰国の途につくことができた。
- ドイツ人実業家オスカル・ヘーレンがペルー北部カラワクラ銀山の共同経営を日本人に持ち掛け、エージェントの田島春雄が出資を募り資本金50万円で日秘鉱業が設立された。出資者には三浦梧楼・奈良原繁・牧野伸顕・大久保利和ら薩長閥の大物と官僚が名を連ねた。前田正名(農商務省の先輩)に誘われた高橋是清は、全財産を投資したうえ日秘鉱業株主代表としてペルーに赴任する役を引受け農商務省特許局長の職を辞した。が、現地へ行ってみるとカラワクラ銀山は既に掘尽くされ廃坑同然、ヘーレンと田島春雄の共謀詐欺事件であることが発覚した。高橋是清は、払込済の15万円を放棄しヘーレンとの契約を解除して帰国、1500坪の大邸宅を売却して出資金を清算し、裏の家賃7円の借家に引越した。
- 明治・大正期の財政家というと、高橋是清の他に松方正義と井上準之助が有名だ。松方正義は、無能な大隈重信大蔵卿に代わって、西南戦争の膨大な戦費負担で破綻に瀕する政府財政を緊縮財政と紙幣整理によって再建し「財政の第一人者」と称された。しかし、志士あがりが牛耳る財政音痴の明治政府にあって実務官僚としてやるべきことをやったに過ぎず、その後の反動デフレには有効な対策を採れなかった。井上準之助は、帝大卒業後日本銀行に入ったエリート官僚で、上司の高橋に引き立てられて日銀総裁まで出世した人物で、金融恐慌では日銀総裁として高橋蔵相と連携し大いに働いた。その後、井上準之助は第二次山本権兵衛内閣に蔵相で初入閣し、濱口雄幸・第二次若槻禮次郞内閣で蔵相となり世界恐慌下のバッド・タイミングで金解禁を断行、デフレ不況に拍車を掛けたが在任中は金輸出再禁止を拒み続けた。松方正義も井上準之助も大胆な緊縮財政・デフレ政策を採用したのに対して、高橋是清は積極財政でデフレ退治に成功した。財政政策の緊縮・積極には功罪あるが、現在に至るまでデフレ政策の成功事例は少なく、国際化の進展で為替政策の重要性が高まった今日においては、財政出動と量的緩和などの積極的金融政策の有効性が世界的常識となっている(ただし日本銀行守旧派は未だにインフレ退治・デフレ誘導に執着している)。高橋、松方、井上の財政政策の効果を結果的にみると、明らかに高橋の積極財政に軍配が上がろうし、日露戦争の戦費調達という大功績を合わせると、本物の「財政の第一人者」の肩書きは高橋是清に贈られるべきだろう。
- 松方正義の政治的功績は「松方財政」即ちインフレ収束と中央銀行創設に尽きる。西郷隆盛が嫌う島津久光の側近で志士活動に参加しなかった松方正義の中央進出は遅れたが、日田県知事として政府の資金調達活動に忠実に働いたことなどが認められ大久保利通の推挙で民部省大丞に任じられた。民部省解散に伴い井上馨(大蔵大輔)・陸奥宗光(租税頭)の大蔵省へ移った松方正義は、薩長藩閥に不平満々の陸奥とは対照的に地租改正などに黙々と取組んだ。江藤新平の汚職追及で井上馨が辞め参議筆頭の大隈重信が大蔵卿に就任、明治六年政変で陸奥宗光も去り松方正義が次席に上った。明治政府は紙幣増発で財源を捻出し鉄道網・郵便制度・学校・官営工場・官庁街建設などの殖産興業施策を矢継ぎ早に行ったが、西南戦争の膨大な戦費負担で財政が逼迫、大隈重信ら志士上りで財政音痴の政府首脳は安易な不換紙幣発行に頼り(戦費42百万円に対し紙幣増刷27百万円・国立銀行借入15百万円)急激にインフレが進行した。無能な大隈重信は外債発行による政府紙幣整理を策し松方正義と衝突、松方は伊藤博文の計いで内務卿へ転出し渡仏して国家財政の基礎を学んだ。3年後の明治十四年政変で大隈重信が失脚、伊藤博文に財政再建を託され参議兼大蔵卿に就いた松方正義は、緊縮財政と増税で収支均衡を図り官営事業売却で資本回収と税収増を促進、蓄えた剰余金で不換紙幣の償却を進め正貨の準備銀を買入れ兌換制度に備えた。一方、松方正義は日本銀行を設立して紙幣発行権を一元管理下に置き銀兌換紙幣(日本銀行券)に統一し銀本位制を確立した。一連の松方財政でインフレは収束し財政危機を脱したが、反動デフレが進行し農産物価格の暴落で小作農が急増、過激な政党活動が蔓延し秩父事件などの農民反乱を引起した。「財政の第一人者」となった松方正義は、最初の伊藤博文内閣から2度の松方内閣を含む6内閣で蔵相を占め、日清戦争では勅令で軍事公債5千万円を発行し伊藤を助けた。伊藤博文に属した松方正義は「黒幕内閣」「後入斎」などと揶揄され薩摩閥でも重みが無かったが、元老・公爵に上り詰め89歳まで長寿を保った。
- 日本の懐柔を企図するロシアは、朝鮮を永世中立化して日露両国の緩衝地帯にしようと提案してきた。しかし日本は、ロシアが陸続きの満州に巨大な兵力を駐留させた状況のまま承諾できるはずはなく、ロシア軍の満州からの撤兵が先であるとして提案を拒否した。日本国内では、満州をロシアに渡す代わりに日本による朝鮮支配を認めさせ武力対決を回避すべしと主張する伊藤博文・井上馨ら日露協商派と(満韓交換論)、世界最強のイギリスと同盟してロシアに断固抵抗すべしとする桂太郎・小村寿太郎ら対露強硬派が鋭く対立、両派それぞれが策動して二面外交を展開した。イギリスは清に有する多くの権益がロシアに侵されることを恐れ、日本からの日英同盟提案を受入れた。最大の後ろ盾を得た日本では、伊藤博文・井上馨らがロシアとの和平交渉を続けつつ、桂太郎首相・小村寿太郎・軍部が対露開戦準備に動き始めた。日英同盟成立に脅威を感じたロシアは清と条約して満州撤兵を約束したがすぐに撤回、伊藤博文・井上馨は改めてロシアに満韓交換論を提案するも拒否され交渉は決裂した。狭小な国土を海に囲まれた日本にとって南下政策を推進するロシアに朝鮮を抑えられることは国土防衛上の死活問題であり(朝鮮生命線論)、やむなく対露開戦を決意して国交を断絶、日露協商派・対露強硬派・軍部が一丸となって戦争準備に邁進した。
- 桂太郎政府は伊藤博文・井上馨の慎重論を退けロシアに宣戦布告、遂に日露戦争が始まった。陸軍は、総司令官大山巌・参謀総長児玉源太郎のもと第1軍(司令官黒木為楨)・第2軍(司令官奥保鞏)・第3軍(司令官乃木希典)・第4軍(司令官野津道貫)・鴨緑江軍(司令官川村景明)を編成した。やる気満々の山縣有朋は総司令官として出征するつもりだったが、用兵下手のうえ口うるさい山縣ではやりにくかろうという明治天皇の英断で日本に留め置かれた(戦争が始まると山縣は督励電報を送り続け現地将官を辟易させた)。一方の海軍は、海相として軍政を握る山本権兵衛が軍令も統率し、山本の作戦計画により編成された連合艦隊は第1艦隊司令長官東郷平八郎・参謀長島村速雄の指揮下に第2艦隊(上村彦之丞)・第3艦隊(片岡七郎)が連なった。なお連合艦隊司令長官の人選は、常備艦隊司令長官の日高壮之丞の横滑りが常道であったが、山本権兵衛は暴走の懸念がある日高を退け命令遵守型の東郷平八郎を指名、明治天皇に理由を尋ねられた山本は「東郷は運の良い男ですから」と回答した。「T字戦法(東郷ターン)」で日本海海戦を勝利に導く秋山真之参謀は東郷司令官の旗艦三笠で作戦を差配、また後に首相となる加藤友三郎は第2艦隊参謀長として出征した。日露両軍の戦力は、日本軍の陸軍総兵力約108万人・艦隊総排水量約26万トンに対して、ロシア軍は陸軍総兵力約200万人・艦隊総排水量約51万トンであった。戦力に加え資金力も乏しい日本政府は日露戦争の戦費調達に腐心したが、日銀副総裁の高橋是清がイギリスに渡りユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフの協力を得て外債および戦時国債の発行に成功、最終的に戦費の過半は外債で賄われ高橋は陰の立役者となった。
- 日露戦争で国力に劣る日本のとるべき道は短期決戦・早期講和しかないと看破した伊藤博文は、そのカギを握るのはアメリカであると考え、側近の金子堅太郎を派遣して親日世論の喚起と講和仲介の準備工作にあたらせた。金子堅太郎は、少年期に岩倉使節団の随員として渡米し小学校からハーバード大学まで学んだ日本屈指の知米派官僚で、セオドア・ルーズベルト大統領とも面識があった。日本軍は極東ロシア軍を撃破し日露戦争に勝利したが、兵力・弾薬・戦費いずれも払底し戦争継続は不可能となった。ここで伊藤博文・金子堅太郎の準備工作が奏功し桂太郎首相はアメリカ政府に講和斡旋を依頼、ルーズベルト大統領はアメリカのフィリピン支配を日本が認める条件で受諾し米国ポーツマスに日露両国の公使を招いて講和会議を開催した。大国ロシアは強硬姿勢で皇帝ニコライ二世は首席全権ヴィッテに賠償金支払いと領土割譲を厳禁、日本側主席全権小村寿太郎の奮闘も及ばず交渉決裂寸前まで追詰められたが、伊藤博文や山本権兵衛に背中を押された桂太郎首相が賠償金要求放棄と領土割譲を南樺太に留める妥協案を承認し、ポーツマス条約の調印に至った。①朝鮮における日本の優越権の承認、②旅順・大連の租借権譲渡、③東清鉄道の南満州支線(旅順-長春間)・安奉鉄道(安東-奉天間)の経営権および付属地炭鉱の租借権譲渡、鉄道守備に係る軍隊駐屯権の承認、④北緯50度以南樺太の領土割譲、⑤沿海州・カムチャツカ沿岸の漁業権承認、⑥日露両軍の満州撤退(鉄道守備隊を除く)・・・賠償金と領土を断念した日本だが「生命線」朝鮮の奪還で開戦の主目的を達成したのに加え、旅順・大連および南満州鉄道の経営権を獲得、軍事進出を正当化する守備軍隊の駐屯権も確保し「利益線」にして「無主の地」満州への足場を築くことが出来た。
- 日露開戦に際し、軍事物資の過半を欧米からの輸入に依存する日本は決済用ポンドの獲得を急務とし、林薫駐英公使はロンドン・シティで外債発行すべく日英同盟に基づきランズダウン英外相に債務保証を求めた。日本はインド原綿・イギリス軍艦の最大購入者で帝国経営に欠かせない存在であったが「金持ち喧嘩せず」のイギリスは中立を理由に債務保証を拒否、桂太郎政府は苦境に立たされた。無官ながら「戦時財政の総監督役」の井上馨は、日銀副総裁で英語堪能な高橋是清を抜擢し戦費調達の大役を託した。高橋是清は腹心の深井英五を伴い横浜を出帆、米国行き便船には伊藤博文の命を受けた金子堅太郎も乗っていた。シティに乗込んだ高橋是清は林薫(ヘボン塾同窓)や末松謙澄・長男高橋是賢の協力を得て戦費調達に奔走、日露戦争の下馬評はロシアの圧倒的有利で難航したが、戦局が日本に傾き始めたこともあり、ニューヨークの金融業クーン・レープ商会のロンドン支配人ジェイコブ・シフを自陣に引込んだ。シフは全米ユダヤ人協会会長であり、ユダヤ人迫害を続ける帝政ロシアを日本が苦しめれば、そのうち革命が起るだろうと考えた。なお、ロスチャイルドはユダヤ資本が日本を支援するとユダヤ人虐待が激化すると考え、高橋是清の活動を暗に妨害した。大物シフの全面的支援を得た高橋是清は関税収入を担保に巨額の外債発行に成功、日露戦争終結までに戦費約20億円のうち10億7千万円を調達し、1907年戦後処理用として2億3千万円を追加調達、累計額は13億円に上った。なお、ロシアもシティに乗込み日本と資金調達合戦を繰広げたが、ユダヤ人迫害と社会主義暴動(第一次ロシア革命)を敬遠され失敗している。一方、日本国内では桂太郎首相や井上馨が戦費調達に奔走したが、財界は公債引受を断った。開戦前「安田の一語、日露戦争を止ましむ」と顰蹙を買った「銀行王」安田善次郎は、日露戦争勝利が決ると低利新発国債による高利外債の期限前償還を提案、第二回起債分1億円を安田銀行で引受けて汚名を雪ぎ勲二等瑞宝章を贈られた。「時代の寵児」高橋是清は男爵に叙され、日銀総裁・蔵相を経て原敬暗殺後の政友会総裁に担がれ首相に上り詰めた。
- 井上馨は、幕末の志士時代から伊藤博文の大親友で、共に高杉晋作のクーデター「長州維新」を支え、伊藤と二人三脚で明治政界をリードした。名門出身の井上馨は長州藩庁に危険視された吉田松陰の松下村塾には加わらなかったが、木戸孝允・久坂玄瑞・高杉晋作ら尊攘派志士グループの一員となり、イギリス公使館焼き討ちにも加わった。井上馨と伊藤博文はイギリス留学へ派遣されたが、長州藩と西洋列強の関係悪化を知り急遽帰国、不戦工作に奔走するも馬関戦争を止められなかった。禁門の変後の第一次長州征討に際し井上馨は高杉晋作と共に徹底抗戦を唱え、佐幕恭順派の闇討ちに遭い全身を切り刻まれ瀕死の重傷を負ったが、奇跡的に蘇生すると功山寺で決起した高杉晋作・伊藤博文に合流し尊攘派の政権奪回に貢献した。維新後の井上馨は、九州鎮撫総督参謀・長崎製鉄所御用掛を経て、志士時代に金策が得意だった流れで参議兼大蔵大輔となり新政府の財政政策を主導したが、尾去沢銅山汚職事件で辞職に追込まれた。実業界へ転じた井上馨は、長州閥を背景に黎明期の財界で辣腕を振るい、三野村利左衛門・中上川彦次郎・益田孝ら三井財閥と癒着して西郷隆盛から「三井の番頭」と揶揄され、腹心の渋沢栄一、長州政商の久原房之助・鮎川義介・藤田伝三郎・大倉喜八郎、石坂泰三ら多くの財界人を支援し、貪官汚吏と批判されつつも死ぬまで財界に君臨した。口うるさい「維新の三傑」が相次いで没すると井上馨は伊藤博文の要請で政界に復帰し外務卿・外相として「鹿鳴館外交」を展開するも条約改正失敗で失脚、第三次伊藤内閣の蔵相を最後に政府から退いたが、長州閥元老として影響力を保持し伊藤の裏方として政治活動を支え続けた。日露開戦が迫ると、井上馨は伊藤博文と共に「満韓交換論」「日露協商」を推進し、戦時財政の総監督役として日銀副総裁の高橋是清を特使に抜擢し膨大な戦費調達を成功させた。伊藤博文暗殺後の井上馨は長州閥長老として政界調整に奔走、伊藤の後継者である西園寺公望・原敬らを盛立てつつ山縣有朋直系の桂太郎と縁戚を結び、第一次山本権兵衛内閣や第二次大隈重信内閣の成立を主導した。
- 日露戦争後の日本では戦費調達のために発行した膨大な公債の利払いと償還が最重要課題であり、第一次山本権兵衛内閣は張本人である高橋是清の蔵相就任を目玉政策に掲げた。一方、護憲運動で倒された桂太郎内閣を継いだ山本権兵衛内閣は、政友会の支持を得るため陸海外相を除く閣僚の政友会入党という条件を呑んだ。銀行家出身の高橋是清に政党活動のキャリアは無く、蔵相ポストへの執着も無かったが、伊藤博文・井上馨・山本権兵衛の懇請で蔵相を引受け政友会に入党した。
- 板垣退助と大隈重信を中心とする自由民権運動は、内実は薩長藩閥への反抗であり政府首脳にとって頭の痛い問題であった。山縣有朋・黒田清隆・西郷従道らは「超然主義」を唱え一貫して政党勢力を弾圧したが、伊藤博文は藩閥政治の限界を悟り「国会開設の詔」で10年以内の国会開設を公約し藩閥サイドの工作を主導した。伊藤博文は、自ら渡欧して立憲政体を研究し、太政官制を廃して内閣制度を発足させ初代総理大臣に就任、枢密院議長に退いて大日本帝国憲法を制定し、公約どおり衆議院選挙と帝国議会開催を実現させた。その後も超然主義に固執し自らの軍閥形成と政党排除に邁進する山縣有朋との政争のなか、伊藤博文は、伊東巳代治・金子堅太郎・西園寺公望・原敬ら配下の官僚政治家および帝国党など「吏党」をベースに、星亨・尾崎行雄・片岡健吉ら憲政党自由派を糾合して、立憲政友会を結党した。これに先立ち、隈板内閣が瓦解したあと与党憲政党では星亨ら自由派が「領袖会議」クーデターで進歩派を追放、大隈重信の失脚と板垣退助の政治意欲喪失で憲政党を掌握した星亨は、第二次山縣有朋内閣の地租増徴に協力したが裏切られ、山縣の政敵で政党政治に理解を示す伊藤博文に接近、伊藤が政友会を結成すると憲政党を解党し合流した。自由民権運動のカリスマとして一時代を築いた板垣退助は政友会創立に伴い潔く政界から引退したが、未練タラタラの大隈重信は14年後に井上馨に担ぎ出され第二次内閣を組閣、薩長藩閥の傀儡に堕し「対華21カ条要求」をしでかした。
- 国会議事堂の四隅には板垣退助・伊藤博文・大隈重信の銅像が立つが(残りの一隅は空の台座)「自由民権運動」の元祖は何といっても板垣退助である。土佐勤皇党の残党を率い戊辰戦争で活躍した板垣退助は、東山道指揮官として会津戦争を鎮圧したが、戦争負担に喘ぐ会津の民衆が藩を見捨てて官軍に味方するのを見て四民平等でなければ国は守れないと痛感し、征韓論争で下野すると「民撰議院設立建白書」を提出し土佐立志社を結成した。伊藤博文の「国会開設の詔」を受け板垣退助が結成した自由党は、薩長藩閥打倒と急進的な国体改革を目指す土佐人中心の社会主義的革新政党で、志士上りの過激活動家が多く西南戦争に呼応し(立志社)秩父事件や大阪事件を引起した。対する改進党は、福澤諭吉を理論的主柱とする慶應義塾出身者ら「文化的進歩人」の集団で、政府を追われた大隈重信を党首に担ぎ、国体改革云々より民意を背景に政治的発言力を高め薩長藩閥に物申そうという方向性で、外交は福澤の『脱亜論』を党是とし日露戦争を機に軍部以上の「対外硬派」となった。薩長藩閥打倒のため両党は大同団結し憲政党を結成、初の政党内閣「隈板内閣」(第一次大隈重信内閣)を成立させたが僅か4ヶ月で内部分裂し瓦解、カリスマ板垣退助は潔く引退し星亨ら自由党系は伊藤博文の政友会に合流し政権与党の基盤となった。シーメンス疑獄で山本権兵衛内閣が倒れると、元老院の井上馨は護憲運動を抑えるべく第二次大隈重信内閣を擁立、薩長藩閥の走狗に堕した大隈は衆議院解散で政友会議員を半減させて井上の期待に応え、二個師団増設を押通して山縣有朋を満足させ、第一次世界大戦が起ると加藤高明外相と共に「対華21カ条要求」をやらかし後世に重大な禍根を残した。原敬・高橋是清の政友会内閣を経て護憲三派が合同し加藤高明内閣が発足したが又も内部分裂、金権政治で金欠の政友会は陸軍機密費の持参金を目当に陸軍長州閥の田中義一を首相に担ぎ、憲政会は分派工作で若槻禮次郞・濱口雄幸が政権奪回、満州事変の激震のなか政友会の犬養毅が組閣したが五・一五事件で横死、以後は軍部主導の内閣が続き政党政治は終焉した。
- 高橋是清は政界屈指の海外通として国際協調のスタンスを貫いた。第一次世界大戦に際しては、外債調達の恩人でドイツ系ユダヤ人のジェイコブ・シフからの要請もあって大隈重信首相に不参戦を説き、対中国政策では「国力の弱っている中国を力で威圧するより、日中両国が経済的に協力することで極東の平和を保ち、英米の資本を導入して産業振興に努めるべし」との卓見を示し「対華21カ条要求」を大いに批判したが、対外硬派の大隈重信首相・加藤高明外相は聞く耳を持たなかった。第一次大戦の特需景気で東京株式市場は高騰し、日本は11億円の債務超過から27億円の債権国となり、国家財政と産業界に限れば参戦そのものは正解といえた。しかし一方で、国内では物資不足からインフレが進行し小作争議が頻発して「米騒動」が全国に波及、国政を揺るがす事態となった。デフレ退治で名を高めた高橋是清もインフレ退治は苦手だったらしく、楽観論に基づいて大戦中の放漫財政を容認し事態の混迷に一役買ってしまった。
- 10年間のフランス留学で自由主義に染まった西園寺公望は、親分の岩倉具視に遠ざけられ、放蕩生活を送りつつ自由党機関紙『東洋自由新聞』の社長に就任、岩倉の妨害ですぐに辞任したが、板垣退助歓迎パーティに出席するなど自由党土佐派との交流は続いた。死を目前に後継者不在の岩倉具視は西園寺公望の懐柔策に転じ伊藤博文に政界復帰工作を懇請、伊藤は立憲制視察の外遊に西園寺を加え、民権派から体制派へ転向した西園寺は岩倉の後継資格を獲得、伊藤の腹心となり政友会総裁を継いで首相に上り詰めた。伊藤博文暗殺で山縣有朋・陸軍長州閥の権勢が高まり影響力を失った西園寺公望は政友会総裁を原敬に譲り政界を退いたが、山縣有朋・松方正義が没すると唯一存命の元老西園寺の存在感は高まり、牧野伸顕・木戸幸一(内相)・鈴木貫太郎(侍従長)ら天皇側近の重臣グループを束ね広田弘毅内閣まで10余年も首相指名の重責を担った。伊藤博文の国際協調・平和主義を継ぐ西園寺公望は軍部の抑止に努めたが、初暴走の張作霖爆殺事件から躓いた。昭和天皇の意を受けた西園寺公望は田中義一首相に事件究明を迫り辞任要求を突きつけるも突如撤回、犯罪の追認行為は一夕会幕僚や青年将校の増長を促し満州事変、五・一五事件、二・二六事件、盧溝橋事件と続く軍部暴走の着火点となった。茫然自失の牧野伸顕内相に「自分は臆病なり」と語ったことから陸軍の脅迫に屈したことが窺える。重臣グループが「君側の奸」と標的にされた五・一五事件の後、怯えた西園寺公望元老は静岡興津の「坐漁荘」に籠るも隠然たる影響力を保持し、内閣交代の度に新聞記者は「興津詣で」を繰返した。西園寺公望の興津院政を支えた住友財閥は貴族院議員原田熊雄を坐漁荘に派遣し近衛文麿・木戸幸一らとの連絡係を務めさせた。原田熊雄の『西園寺公と政局-原田熊雄日記』は昭和史の第一級資料である。西園寺公望は、二・二六事件後の首相指名を近衛文麿に断られ政界引退、第二次近衛内閣の日独伊三国同盟締結を座視し直後に「これで日本は滅びるだろう。これでお前たちは畳の上では死ねないことになったよ。その覚悟を今からしておけよ」と側近に語り死去した。
- 大磯の別荘「寿楽庵」に滞在中の安田善次郎は、押掛けて来た右翼青年との面会に応じたが、突然刃渡り8寸ほどの短刀で斬付けられた。82歳ながら健康体の安田善次郎は逃走するも追いつかれ背後から咽喉部に止めの一撃を受け絶命、犯人の朝日平吾は現場を離れた直後に西洋カミソリで喉を掻切り壮絶死を遂げた。朝日平吾は、安田善次郎がで巨利を博した「相場操縦」に巻込まれ株式相場で大損を出し投身自殺騒ぎを起していた。佐賀県出身の朝日平吾は旧制福岡中学から日本大学へ進むも満州に渡るなど無頼生活を送り、当時死病といわれた結核に侵されたことで極端な厭世家となり、「神州義団」を名乗るエセ右翼に落ちぶれ富豪の邸宅に押掛けては金銭をせびる行動を繰返し、安田善次郎の前には渋沢栄一を訪ねたが100円の小遣いで追払われていた。「金の亡者」と嫌われた安田善次郎の死に世間はほとんど同情を寄せず、逆に殺人犯は英雄視され、この2ヵ月後に起る原敬首相刺殺事件の呼水になったともいわれる。不慮の死を遂げた「銀行王」安田善次郎だが、今日に繋がる安田財閥と膨大な遺産を残した。死亡時の安田善次郎の個人資産は2億円超といわれ、その年の年間国家予算1,591百万円の8分の1に相当する巨万の富を一代で築いたことになる。が、安田善次郎はケチといわれつつ生涯質素倹約に徹し、芸者遊びを嫌い、1872年1月1日から1921年の死の前日まで49年間、毎日几帳面に日記を書き続けた自律の人でもあった。現在も安田家に飾られているという安田善次郎自筆の俳画には、みみずくの絵の横に「小鳥ども 笑わば笑え われはまた 世の憂きことは 聞かぬみみずく」の句が添えられている。
- 三井・三菱・住友などが持株会社・コンツェルン方式を採用し財閥経営の近代化を進めるなか、安田財閥は個人商店スタイルに固執する安田善次郎のもと「関係するところの事業は、他の英雄豪傑を加えるを欲せず。権力を一身に集め、重役に任ずるものは子弟・安田善某、安田善某・・・」という有様で、一度は後継者に就いた婿養子の安田善三郎も一族不和を理由に追放され、前時代的な「のれん・前垂れ主義」の旧態を保ち続けた。独裁者の安田善次郎が暴漢の凶刃に斃れると「安田王国にはただ狼狽だけがあった」と評される大混乱に陥り、実子の安田善之助・善五郎・善雄が安田保善社・安田銀行・第三銀行のトップに就き集団指導体制を敷いたが、安田一族を含め社内には安田財閥を担うべき人材が皆無だった。古参幹部の原田虎太郎は蔵相の高橋是清に人材周旋を依頼し、人選を任された日銀総裁の井上準之助は日銀理事・大阪支店長の結城豊太郎に白羽の矢を立てた。大物財界人を期待した安田側は冷淡だったが、結城豊太郎は経営独裁を条件に安田入りし、保善社専務理事・安田銀行副頭取の要職に就いて実権を掌握すると敢然と経営近代化に乗出した。結城豊太郎は、安田善次郎の「大卒者不要」論を捨てて大学・高等専門学校卒業生の定期採用に踏切り、即戦力確保のため海外視察派遣制度や外部招聘にも注力した。事業面では傘下銀行の大合併など事業統廃合による合理化を推進、結城豊太郎の孤軍奮闘により安田財閥は関東大震災から金融恐慌へ至る波乱局面を何とか乗切った。が、「喉もと過ぎると」結城専制に不満を抱く安田一族と古参幹部が蝟集し、浅野財閥の経営危機に乗じ内部クーデターが発生、結城豊太郎は功成って追放される憂き目に遭った。安田財閥を去った結城豊太郎は、高橋是清・井上準之助ラインで官界に復帰し日本興業銀行総裁・蔵相・日銀総裁を歴任、第二次大戦後は悠々自適の余生を送り1951年に永眠した。最後の総帥として財閥解体に対処し芙蓉グループの礎を築いた安田一(安田善次郎の嫡孫)は、安田財閥を救った結城豊太郎の業績を讃え感謝の辞を贈っている。
- 原敬は、初の本格的政党内閣を組閣した藩閥外出身で初の首相、終生受爵を固辞した「平民宰相」は国民的人気を博したが実態は長州閥政権であった。「賊軍」盛岡藩出身の原敬は、「白河以北一山百文」という薩長人の侮蔑に憤り「一山(逸山)」と号して士族籍を捨て、薩長に対抗すべく新聞記者になったというが、出世後の後付である。むしろ祖父が盛岡藩家老という毛並は戦前の首相で抜群であり、平民降下は次男の原敬が戸主となるための徴兵逃れ策だった。とはいえ生家が没落した原敬は苦学してフランス語を習得し、学資不要の司法省法学校に進むが「学生運動」で放校、中井弘(薩摩人だが長州系)の知遇を得て郵便報知新聞社に職を得た。明治十四年政変で下野した大隈重信が郵便報知を買収すると原敬は追出され、薩長閥の御用新聞『大東日報』の主筆に納まるも経営破綻、外務卿の井上馨に拾われ外務官僚となった。中井貞子(中井弘の実子で井上馨の養女)を妻に迎えた原敬は、翌年天津領事に大抜擢され、華のパリで3年間の外交官勤務、井上馨の外相辞任に殉じたが陸奥宗光農商務相に重用され、外相に転じた陸奥のもと条約改正と日清戦争に活躍した。陸奥宗光の急死・大隈重信の外相復帰で原敬は退官し大阪毎日新聞社に移ったが、伊藤博文の政友会に迎えられた。伊藤博文暗殺後、党運営を担った原敬は政友会を絶対多数党に発展させ、桂太郎との協力関係を築いて「桂園時代」を演出、西園寺公望から政友会総裁を継ぎ、陸海外相以外を政友会で占める政党内閣を組閣した。薩長藩閥と戦う平民宰相のイメージに民衆は酔ったが、そもそも長州閥の原敬首相は軍閥・大資本優先政策を採り「我田引水」と批判されるほど露骨な利権追求と対官僚妥協で党勢拡大に明け暮れ、山縣有朋とも手を結んだ。軍部懐柔のため国防充実を掲げた原敬内閣は安易な増税と公債発行で軍事予算を急拡大、当然ながらインフレが発生し小作争議や労働ストライキが頻発すると治安警察法で弾圧し、3閣僚が政商と株の不正売買を行った「大正のリクルート事件」は議会の絶対多数で握り潰した。民衆に失望された原敬は、何でもない鉄道員に東京駅で刺殺された(初の首相暗殺事件)。
- 高橋是清は、原敬首相暗殺を受けて急遽政友会総裁に推され首相となったが、閣内不一致で僅か5ヶ月の短命内閣だった。高橋は財政家としては一流であったが、政治家としての資質には恵まれず本人も組閣に乗り気ではなかったようだ。そもそも政党政治家としてのキャリアは無く、政友会入党は山本権兵衛内閣の蔵相就任に際して伊藤博文や井上馨から懇望されたことによる便宜的措置だった。財政家・蔵相としての抜群の業績により原敬の後継総裁となったものの、大黒柱を失った政友会の混乱を収拾する力は無く、高橋総裁のもとで政友会は迷走した。普通選挙実施が決まると、選挙人の増大に比例して政党が必要とする政治資金も急増、もともと議会政治家ではなく金策が不得意な高橋是清は政友会総裁を降板、陸軍が溜め込んだ機密費から300万円の持参金を捻出した田中義一が後継総裁となった。田中義一は陸軍長州閥の領袖であり、政党政治の堕落はここに極まった。
- 日本を脅威と感じ始めたアメリカは、日本の国際進出の後ろ盾となっていた日英同盟の廃棄を画策、イギリスに強く働きかけて日英同盟廃棄を提案させ高橋是清政府に受諾させた。アメリカの言い分は「ワシントン海軍軍縮条約で日米英の主力艦比率を決めるに際し、日英同盟があるとアメリカは不利に立たされる」という理屈で、親米カナダの説得により英本国で日英同盟廃棄論が逆転勝利した。日本側では、第一次大戦で日本艦隊の地中海出動を強要された海軍の反英機運があり高橋是清政府は日英同盟廃棄を承諾、「パクス・ブリタニカ」から完全に外れた日本は独自外交と軍拡競争の時代に突入した。
- 第一次世界大戦に伴う西欧諸国の財政難と軍縮機運の高まりを受け(日米は特需を享受)、1921年米英日仏伊の五大国が「ワシントン海軍軍縮条約」を締結、建艦競争抑止のため主力艦(戦艦・空母)の比率を米英5:日本3に定めたほか、日本の山東半島権益の返還などが決められた。台頭著しい日本海軍に警戒を強めるアメリカは、イギリスを抱込んで日英同盟を廃棄させ軍縮条約で軍拡抑制を図った。高橋是清内閣は日本全権として加藤友三郎海相・幣原喜重郎(国際協調派外交官)・徳川家達(公爵徳川宗家当主)を派遣した。露骨な日本封じに海軍内部の反発は強かったが、加藤友三郎は「八八艦隊」軍拡計画の主導者ながらアメリカと競う愚を悟って軍縮へ舵を切り「国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。国家総動員してこれにあたらざれば目的を達しがたし。平たくいえば、金がなければ戦争ができぬということなり。・・・日本と戦争の起る可能性のあるのは米国のみなり。仮に軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦争のときのごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。しかしてその米国が敵であるとすれば、この途は塞がるるが故に、結論として日米戦争は不可能ということになる。国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。すなわち国防は軍人の専有物にあらずとの結論に達す」と喝破し条約調印を断行した。
- 加藤高明内閣の業績といえば普通選挙法くらいだが、「普選」は政党勢力共通の宿願であり、立役者は加藤首相と与党憲政会ではなく原敬(故人)・犬養毅・尾崎行雄らであった。加藤高明内閣における普通選挙法の審議は、清浦奎吾の「超然主義」枢密院が悪あがきして選挙人の欠格事由の条文に難癖をつけたため若干難航したが、若槻禮次郞内相が欠格事由を「貧困に因り公私の救助を受け、または扶助を受くるもの」(大学生等には選挙権を認める)に改め妥協が成立した。普通選挙法で納税額による制限が撤廃され25歳以上の一般男子すべてに選挙権が与えられることとなり有権者数は4倍増となったが、有権者の増加は必要となる政治資金の膨張に直結し金権政治蔓延の契機となった。自らの首を絞めた政党は資金難に陥り、高橋是清の政友会は持参金(陸軍機密費)欲しさに陸軍長州閥の田中義一に総裁職を禅譲する事態となり、田中の急死後に政友会を継いだ犬養毅・鳩山一郎は民政党内閣打倒に盲進し軍部と結んで「統帥権干犯」を弾劾、犬養は政権を奪回するも五・一五事件で殺害され政党政治は命脈を絶たれた。
- 金融恐慌を発生させ総辞職に追込まれた若槻禮次郞内閣に代わり、政友会が陸軍長州閥の田中義一を担ぐという奇妙極まりない内閣が発足した。金策に疎い高橋是清のもと政治資金に窮した政友会は、巨額の機密費を溜め込んだ陸軍に接近、なんと宿敵山縣有朋直系の田中義一を総裁に迎え入れるという暴挙を敢行し、藩閥・軍閥に対する抑止力という政党本来の存在意義を放棄した。政争のための政治に明け暮れる政党政治の堕落を象徴する事件であった。
- 田中義一は長州藩出身だが、12歳のとき萩の乱で反乱軍に加わったことで前途を塞がれた。長崎・対馬・松山を転々し独学を続けたが、陸軍教導団で受験資格を獲得し2・3年遅れで陸軍士官学校に進学、校長は萩の乱で鎮圧軍を指揮した三浦梧楼だった。田中義一は晴れて陸軍長州閥に連なり、日清戦争では第一師団副官として動員計画を担い第一師団参謀に昇進、参謀本部勤務を経てロシア留学に出された。明朗な田中義一は部下に慕われ、30歳前の結婚まで兵卒と営内居住を共にした。陸軍主流(ドイツ留学→作戦担当)から外れた田中義一は陸士同期の山梨半造や大庭二郎に水を空けられたが、ロシアで情報収集任務と語学習得に励みつつ外遊生活を謳歌、海軍駐在武官の広瀬武夫と共に女優出身のロシア帝室付ダンサーからダンスを習び、ギリシア正教に入信、ロシア将校の妹と浮名を流した。日露開戦が迫ると、帝政ロシアの弱体化を確信する田中義一は開戦を主張、不戦(日露協商)派の伊藤博文に嫌われロシア革命に身を投じようと思い詰めたが、ロシア通ゆえに大本営参謀本部に召喚されロシアの動員能力を過小に偽り開戦を促した。日露戦争の軍令は児玉源太郎参謀総長の独壇場で参謀に活躍の場は無かったが、田中義一は山縣有朋・井上馨ら長州閥首脳に認められ陸軍省軍務局長を経て原敬内閣で陸相に栄達した。桂太郎・寺内正毅・山縣有朋の死で田中義一は陸軍長州閥首領へ躍り出たが、在郷軍人会で独自の勢力基盤を築き政友会とも協調関係を構築、普通選挙法で政友会が資金難に陥ると田中は陸軍機密費300万円の持参金を手土産に高橋是清から総裁を継ぎ首相に上り詰めた。高橋是清蔵相が積極財政で金融恐慌を収拾し「おらが首相」田中義一は大衆人気を博したが、足元の陸軍では長州閥打倒を掲げる永田鉄山・石原莞爾ら一夕会系幕僚が台頭し張作霖爆殺事件が発生、昭和天皇の意を受けた田中首相は事件究明を図るも配下の白川義則陸相・阿部信行次官・杉山元軍務局長まで敵対する上原勇作元帥に靡き、天皇から叱責された田中は陸軍との対決を避け総辞職を選択、間もなく急死した(自殺説あり)。
- 第一次世界大戦による特需景気の反動不況、さらに関東大震災後に乱発した震災手形が膨大な不良債権と化す状況下において、片岡直温蔵相の「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」という失言を契機に、中小銀行を中心に取付け騒ぎが発生、金融システムが機能不全に陥り、大手商社の鈴木商店が倒産、台湾銀行が休業に追込まれるなど金融恐慌に発展、若槻禮次郞内閣は総辞職に追込まれた。「財界の第一人者」高橋是清は、政友会総裁を譲った田中義一が組閣すると73歳にして蔵相に再登板し弟子の井上準之助日銀総裁と協力し異次元の緊急金融政策を断行した。手形決済や預金払戻しを一時猶予する「モラトリアム」で被害の連鎖を防ぎつつ、片面印刷の200円札を大量に発行し銀行店頭に積上げさせて預金者を安心させた。短期間で金融恐慌を収拾した高橋是清は蔵相を依願退職し政府を退いたが(後任は政友会の三土忠造)、2年後に世界恐慌が勃発し再び渦中に呼戻される。
- 関東軍は満州を支配する奉天軍閥の張作霖を傀儡に満州支配の機を窺っていた。張作霖は元来馬賊の一頭目で、日露戦争時にロシアの対日スパイ工作に従事(遼河右岸新民屯営長)、日本軍に逮捕され死刑宣告を受けたが、井戸川辰三軍政署長と田中義一参謀が生かして利用した方が得策と児玉源太郎参謀総長を説得した。日本軍の援助を得た張作霖は一躍満州の支配者となり、大元帥を僭称して華北を襲い安徽派・直隷派の北洋軍閥から北京政府を奪取したが、増長し自立の色を立てたため日本軍に見放され、蒋介石の北伐軍が北京に迫ると忽ち奉天へ逃避した。陸軍中央では再び張作霖を援助し国民政府軍と対決すべしとの意見もあったが、傀儡の張を捨て満州の直接支配を期す方針に決定、我が意を得た関東軍の河本大作高級参謀らは奉天へ向かう列車を爆破し張を殺害した(張作霖爆殺事件)。永田鉄山・石原莞爾ら一夕会系幕僚および一部陸軍首脳の組織的犯行であったと考えられる。関東軍は中国人アヘン中毒者の仕業と偽る隠蔽工作を施したが内地ではすぐに真相発覚、西園寺公望元老も知るところとなり、昭和天皇は事件の究明を強く求めたが、西園寺は陸軍の脅迫で脱落し、張作霖の黒幕にして陸軍長州閥首領の田中義一首相は軍法会議を図るも配下にも裏切られ内閣総辞職でお茶を濁した。昭和天皇に叱責された田中義一は間もなくショック死し(自殺説あり)、政友会は74歳の犬養毅を後継総裁に担出した。以後、昭和天皇は政府への口出しを控え、統帥権の監視を担わされた西園寺公望ら天皇側近は「君側の奸」と敵視されることとなる。陸軍首脳の自制で張作霖爆殺事件は不拡大に終わり一夕会系幕僚の野望は挫折したが、続く濱口雄幸内閣も事件究明を怠り、結果として統帥権違反の重罪を追認したことが満州事変、五・一五事件、二・二六事件、日中戦争拡大へ続く軍部暴走の呼び水となった。なお軍法会議を免れた河本大作は、軍役から外されたものの陸軍の引きで満鉄理事・満州炭鉱理事長に納まっている。
- 濱口雄幸首相・井上準之助蔵相は民政党の宿願であった「金解禁」を断行したが、世界恐慌下における実施はあまりに時期が悪く不況に拍車をかける結果を招いた。国民と政友会は金輸出再禁止を求めたが井上準之助蔵相は拒絶、続く第二次若槻禮次郞は満州事変で機能停止に陥り、犬養毅内閣の蔵相に緊急登板した高橋是清が金輸出再禁止と積極財政出動を断行するまで不況は放置された。
- 1929年、「暗黒の木曜日」に始まったニューヨーク株式市場の大暴落が世界恐慌に発展した。不況の波はすぐに日本にも押し寄せ、農産物価格の下落により農村は困窮化、全世界的な繊維不況と欧米列強によるブロック経済化の進展により輸出産業の柱であった生糸・綿糸・綿布産業も壊滅的打撃を蒙った。追込まれた日本は国を挙げて中国大陸に活路を求め、満州事変勃発、日中戦争拡大と続くなかで、高橋是清蔵相が主導した積極財政政策により軍事費が急拡大して第二次大戦終結まで国家予算の70%という異常な水準で高止まりした。一方、旺盛な軍需により重化学工業が勃興、中国市場の獲得で繊維輸出も持ち直し、日本経済は早くも1933年に回復基調に入り翌年には世界恐慌前の水準に回復、他の先進国より5年も早く経済回復を果した。高橋是清は、膨張した財政支出の正常化を図るため軍拡抑制に舵を切ろうとしたが、国家総動員体制の構築を企図する軍部と軍需景気に沸く世論を抑えられず、軍部や右翼に憎まれて「君側の奸」に加えられ、二・二六事件で斬殺されてしまった。以降も軍需主導の経済成長は進み、1940年には、鉱工業指数は世界恐慌前の2倍、国民所得は140億円から320億円と2.3倍に拡大、超高度というべき経済成長を遂げた。しかし、国力を度外視した戦争経済は、過剰な軍国主義的風潮と軍部の強権化、民生の圧迫など多くのひずみを生んだ。また、国策主導による統制経済への傾斜は、大資本による経済寡占化を進展させ、第二次大戦終結時には三井・三菱・住友・安田の四大財閥が全国企業の払込資本の半分を占めるという「開発独裁」状態をもたらした。財閥に富が集中する一方で農村では困窮化が進むという「格差社会」情勢は、社会主義的風潮と軍部主導による「国家改造」への期待を醸成し、安田善次郎暗殺、濱口雄幸首相襲撃、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件と続いたテロの温床となり、ますます軍国主義化を助長して格差はさらに拡大するという皮肉な結果をもたらした。
- 濱口雄幸首相銃撃事件、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件と続いたテロの背景には、軍部における下克上の風潮に加え、世界恐慌後長引く不況と金解禁等政府の失策に対する民衆の憤りがあった。デフレ不況で農村の窮迫が深刻の度合いを深める中、政府は有効な手立てを講じることができず、濱口雄幸内閣に至っては時機を誤った金解禁で不況を悪化させたうえに財閥に巨富をもたらす結果を招いた。何時の時代でも不況の打開策で最も手っ取り早いのは戦争であり、ジャーナリズムの扇動もあって、世論は好戦ムード一色となり軍部への期待が高まった。兵卒の大多数は農村出身者であり、彼らの悩みに直に接する隊付青年将校達は最も敏感に反応し井上日召・北一輝・西田貢ら民間右翼の思想に共鳴、グループを結成して急進的な「国家改造」を企てた。方や陸軍上層部では、下克上で実権を掌握した中堅幕僚グループ・一夕会が、永田鉄山率いる統制派と真崎甚三郎・荒木貞夫・小畑敏四郎らの皇道派に別れて対立を深めていた。隊付青年将校グループは、思想信条が近い皇道派と結びつき、武力クーデターによって「君側の奸」を排除し真崎・荒木を首班とする軍部主導内閣を打ち立てて一気に「国家改造」を果たそうとした。こうした事情のもとに行われた隊付青年将校グループと民間右翼によるテロは、金解禁を実施した濱口雄幸と井上準之助、金解禁で儲けた三井の団琢磨を殺害した後、犬養毅を斃して政党政治を葬り、二・二六事件でピークに達した。二・二六事件は、統制派の林銑十郎陸相・永田鉄山軍務局長により陸軍中枢から追われつつあった皇道派の起死回生の反撃という意味合いもあり、1500人もの反乱軍による一大内乱事件に発展した。結局、二・二六事件は昭和天皇の英断により断固鎮圧され、陸軍中央では皇道派幕僚が完全に閉め出され、一夕会・非皇道派の石原莞爾、続いて武藤章・東條英機ら統制派の天下となった。
- 井上日召の血盟団ら民間右翼団体が有力政治家や財閥重鎮など約20名の暗殺を企て、濱口雄幸内閣の蔵相で金解禁を断行した井上準之助および三井合名理事長の團琢磨を射殺した(血盟団事件)。一部の海軍人も関与したが、第一次上海事変に出征したため実行犯には加わらなかった。首謀者の井上日召および暗殺犯の小沼正・菱沼五郎が無期懲役に処されたが、1940年の大赦により僅か8年で出獄した。右翼シンパの近衛文麿は井上日召を別荘「荻外荘」に庇護し、血盟団残党の菱沼五郎・四元義隆や五・一五事件主犯の三上卓(ひもろぎ塾)共々近衛内閣のブレーンに迎えている。日銀時代の井上準之助の上司で「財政の第一人者」高橋是清も4年後の二・二六事件で殺害されるが、経済問題(農村の疲弊)がテロの主要動機だったことが窺える。
- 満州問題武力解決を強行する陸軍の謀略を知った昭和天皇と元老西園寺公望は南次郎陸相を呼びつけ停止を厳命、腰砕けとなった南は金谷範三参謀総長に相談のうえ止め役として建川美次作戦部長を満州へ派遣した。これを知った関東軍の石原莞爾作戦参謀・板垣征四郎高級参謀らは決行か中止かで大いに迷ったが、三谷清憲兵分隊長・今田新太郎駐在分隊長ら若手の強硬派に押され遂に実行を決意した。奉天に到着した建川美次を料亭菊文に招いて酒豪の板垣征四郎らが酔潰している間に、今田新太郎ら実行部隊は奉天郊外の柳条湖付近で鉄道を爆破した(柳条湖事件)。満鉄の鉄道爆破は、関東軍条例第三条に基づく合法的軍事出動の理由を得るためであった。菊文を飛出した板垣征四郎は張学良軍の先制攻撃と断じて奉天守備隊長らに奉天城・北大営の攻撃を命令、旅順の関東軍司令部では石原莞爾が本庄繁司令官を説伏せ関東軍を奉天へ進発させた。奉天作戦に続くハルビン侵攻を期す石原莞爾は、張学良軍が奉天周辺だけで2万・満州全土で25万もいるのに対し関東軍は1万余という戦力不足を補うため、朝鮮駐留軍の越境増援を画策し朝鮮軍作戦参謀の神田正種の内諾を得ていた。が、奉天で待っていたのは金谷参謀総長からの不拡大方針決定を伝える電報であり、本庄繁司令官は翻意して即時停戦を命じ「ハルビン侵攻などもってのほか」とした。が、諦めない石原莞爾らは「ハルビンが駄目なら吉林省」と侵攻作戦を書き直し本庄司令官に談判した。「沢庵石」の異名をとる本庄繁は撥ね付けたが板垣征四郎の強談判に屈し、石原莞爾参謀は戦線を満州全域へ拡大、林銑十郎司令官の独断で朝鮮駐留軍も越境来援し日本軍は瞬く間に張学良軍を掃討し満州全域を制圧した(満州事変)。このとき本庄繁が頑として拒否を貫いていれば、張作霖爆殺事件と同様に満州事変は忽ち沈静化し石原莞爾・一夕会の大陸浸出の野望も挫折した可能性が高い。
- 石原莞爾関東軍作戦参謀と示し合わせていた神田正種朝鮮軍作戦参謀は、満州事変が起ると、朝鮮軍を率いて国境線の鴨緑江まで進んで待機した。金谷範三参謀総長は昭和天皇に朝鮮軍の越境出動を奏上したが、頑なに拒絶された。ところが、林銑十郎朝鮮軍司令官は独断で出動命令を下し、1万人以上の兵員を満州に進発させた。大元帥である天皇の命令なくして軍隊を動かすことは大犯罪であり、軍法会議で死刑になる決まりであった。慌てた陸軍首脳はこれを閣議に持ち込み、武力解決反対の若槻禮次郞首相や幣原喜重郎外相らは南次郎陸相を吊るし上げたが、林銑十郎司令官の越境朝鮮軍が既に満州に入ったとの報を聞くと若槻首相は「それならば仕方ないじゃないか」と一転、林司令官の行動の追認を閣議決定したばかりか、軍事費の特別予算拠出を決定、軍事予算急拡大の端緒を開いた。天皇の意思は無視されたわけだが、閣議決定には異を唱えない慣例のため、やむなく天皇も認可した。なお、新聞各紙は、林司令官を「越境将軍」などと持上げて犯罪行為を擁護した。
- 対外硬派の松岡洋右外相(元満鉄副総裁)の演説を契機に「満蒙は日本の生命線である」とする論調が活発化し、マスコミが煽ったため世論は「満蒙生命線論」に染まった。「二十億の国費、十万の同胞の血をあがなってロシアを駆逐した満州は日本の生命線である」という分り易いキャッチは瞬く間に国民を捕え、後に親米派に転じる吉田茂(奉天総領事)なども「満蒙の支配なくして経済的な繁栄も政治的な解決もない」と歓迎する有様だった。当時の弱肉強食の国際情勢からすると、戦線を満州に留める限り、合理的且つ現実的な方向性ではあったが、過剰な世論の後押しは永田鉄山・石原莞爾ら陸軍幕僚に決起を促す重要な支援材料となり、新聞記者は陸軍の接待攻勢に進んで抱込まれた。そして関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎が柳条湖事件を起し満州事変が勃発すると、当時ダントツの部数を誇った朝日新聞・東京日日新聞(毎日新聞)など新聞各紙は陸軍礼賛一色となり、新聞に煽られた世論は好戦ムードに染まった。新聞各紙は号外連発で民衆を煽り、巨費を投じた戦争報道で大きく部数を伸ばし、味をしめて完全に陸軍の宣伝機関に堕した。また、満州事変への関心の高まりはラジオの普及も促進し、約65万人だった契約者数は半年後に105万人を突破した。この後、勇ましい戦争記事を載せないと他紙に部数を奪われるという自縄自縛に陥った新聞業界は終戦まで軍部礼賛を継続、「社会の木鐸」の使命を放棄したマスコミは日本国民を破滅へ誘う笛吹童子となった。
- 若槻禮次郞内閣の満州事変不拡大方針を不服とする橋本欣五郎(陸士23期)陸軍中佐ら「桜会」が、北一輝・西田悦・大川周明ら民間右翼と結託し東京で武装クーデター未遂事件を起した(十月事件)。桜会は同年3月にも「国家改造」を企てたが、非合法手段を認めない「一夕会」の永田鉄山・岡村寧次(16期)らの反対で首相に担ぐべき宇垣一成陸相に逃げられ失敗していた(三月事件)。捲土重来を期す橋本欣五郎は、親友の石原莞爾(21期)が起した満州事変に呼応し、若槻禮次郞首相・幣原喜重郎外相以下の政府要人を暗殺し荒木貞夫陸軍中将の組閣大命を得て軍事政権を樹立する、という陸軍史上最大級のクーデターを企てた。が、「宴会派」といわれた桜会の計画は永田鉄山が「たとえこころざしは諒とされても、こんな案で大事を決行しようと考えた頭脳の幼稚さは、驚き入る」ほど杜撰なもので、忽ち陸軍中央に発覚し首謀者は憲兵隊に一斉検挙された。永田鉄山は橋本欣五郎の極刑を主張したが、荒木貞夫・石原莞爾らの擁護論が通り内々に重謹慎二十日の軽処分で済まされ、陸軍は又も悪しき前例を積重ねた。処分を免れた大川周明は血盟団事件で團琢磨と井上準之助を暗殺し、北一輝・西田悦は陸軍青年将校を扇動し二・二六事件を引起すことになる。橋本欣五郎は反乱将校を擁護し予備役へ回されたが、日中戦争で軍務に復帰し、近衛文麿首相の新体制運動に加盟し翼賛選挙で衆議院議員となった。
- 第二次若槻禮次郞内閣は8ヶ月の短命に終わったが、在任の1931年は極めて重大な年であり、切所に政権を担った若槻首相は重大な失策を犯した。組閣後すぐに柳条湖事件が起り満州事変へ拡大、若槻禮次郞内閣は「不拡大方針」を決定し南次郎陸相を突上げたが、林銑十郎司令官の朝鮮軍が越境満州に入ったと聞くと「それならば仕方ないじゃないか」とあっさり追従、満州事変と「越境将軍」の追認を閣議決定したばかりか、戦費の特別予算編成を示唆し軍事予算急拡大を規定路線化した。柳条湖事件ではオッカナビックリだった石原莞爾らは勇気百倍し「満蒙問題解決案」を策定、帰国した板垣征四郎が優柔不断な陸軍首脳を説伏せ若槻禮次郞内閣は「満州国建国方針」を承認、軍部暴走を運命付けた決定的瞬間であった。天皇の「統帥権」を侵した石原莞爾・板垣征四郎・林銑十郎らは軍法会議で極刑に相当する重罪犯だったが、若槻禮次郞内閣の事後承諾で逆に評価される立場となり処罰どころか陸軍中枢への道を歩んだ。金解禁が不況に拍車をかけるなか井上準之助蔵相は金輸出再禁止を拒み続け、満州事変処理で機能停止に陥った民政党内閣は閣内不一致となり若槻禮次郞は首相を投出した。加藤高明内閣より憲政会・民政党政権の外相として対英米協調・対中国不干渉を主導してきた幣原喜重郎(加藤と同じく岩崎弥太郎の娘婿)は政界を去り「幣原外交」は終焉、日本外交の主導権は軍部および松岡洋右・大島浩・白鳥敏夫ら強硬派へ移った。政友会が政権を奪回したが、五・一五事件で犬養毅首相が斃され政党内閣は命脈を絶たれた。右翼やマスコミの軍部礼賛が盛上るなか、石原莞爾らは清朝の溥儀を担出し傀儡満州国を建国、松岡洋右全権が国連脱退のパフォーマンスを演じ日本の孤立化が始まった。民政党総裁を町田忠治に譲った若槻禮次郞は重臣会議に列し、米内光政・岡田啓介らの平和穏健路線を支持した。第二次大戦後、東京裁判検事のジョセフ・キーナンは岡田啓介・米内光政・若槻禮次郞・宇垣一成の四人を「戦前日本を代表する平和主義者」と持上げたが、実際の若槻は身を挺して国難にあたったわけでなく東條英機内閣打倒に一票を投じたに過ぎない。
- ワシントン・ロンドンで英米と軍縮条約を締結した海軍主導で軍事費の縮小が進んでいたが、満州事変勃発により一転、若槻禮次郞内閣は陸軍の永田鉄山・石原莞爾らに引きずられ軍事費の急増が始まった。1930年には約5億円とアメリカの3分の1・イギリスの半分ほどだった軍事費は、1931年から急拡大し、日中戦争開戦の1937年には50億円と十倍増してアメリカとイギリスの軍事費を上回るほどに膨張、1940年には遂に100億円を超えた。「財政の第一人者」高橋是清は、世界恐慌脱出のため軍事費を中心とする財政出動に賛成し日本は軍需バブルで他国より早く不況を脱したが、勇気をもって引締めに転じたため「君側の奸」に加えられ二・二六事件で殺害された。国家予算に占める軍事費の割合は、1930年には30%ほどだったのが、1937年以降は70%を超える水準で高止まりすることとなった。日独の軍拡に対抗するため英米も軍事費を増やしたが、それでも軍事予算割合は日本の半分程度に抑えられた。
- 犬養毅内閣の蔵相に就任した高橋是清は、世界恐慌勃発後長引くデフレ不況を克服するため、金輸出再禁止や政府(軍事費)支出増大などの大胆なリフレーション政策を採り、欧米列強に先駆けてデフレ脱却を成功させた。その後、高橋はリフレーション政策から来るインフレを抑えるため軍事費予算の縮小に方向転換したため、軍部の恨みを買い、二・二六事件で襲撃される要因となった。ただ、当初の暗殺ターゲットに高橋是清は入っておらず、たまたま赤坂の私邸にいたのを探知され事の序に襲われた可能性が高い。
- ロンドン海軍軍縮条約や第一次上海事変の不拡大に不満を抱く三上卓中尉・古賀清志中尉ら海軍青年将校の一団が、天皇をミスリードする「君側の奸を排除する」として武装蜂起し犬養毅首相を殺害した(五・一五事件)。新聞記者あがりの犬養毅は政界に転じても毒舌の皮肉屋で鳴らし、大の負けず嫌いだった。三上卓らが首相官邸に来襲すると犬養毅は「早くお逃げください」と促す村田警備官を制し「きみらは何者だ?」と応酬、落着いた態度で「待て、話せばわかる。撃つのはいつでも撃てる。話をしてからにしろ。靴くらい、ぬいだらどうだ」と諭すも三上は「問答無用!」と叫んで銃弾を浴びせ逃走、犬養はタバコに火をつけ「いまの若いものたちを、もう一度呼んでこい。わしがよく話してやる」と話した。頭部に命中した2発の銃弾は急所を外れていたが、銃傷を軽く看た医師団のミスもあり数時間後に犬養毅は死亡した。軍部が「君側の奸」と憎む西園寺公望元老・牧野伸顕内大臣・鈴木貫太郎侍従長も狙われたが難を逃れた。現役の軍人が首相を殺すという大犯罪であったが、海軍内部では艦隊派(軍拡派)の東郷平八郎元帥・加藤寛治大将を筆頭に同情論が支配的で、国民からも助命嘆願運動が起り、首謀者の三上卓と古賀清志が禁固15年・実行犯2人が無期懲役と禁固13年に処されたものの残りは全部無罪という到底考えられない判決が下され、受刑者も6年後の特赦で放免となった。三上卓は、血盟団事件を起すも特赦放免の井上日召・菱沼五郎・四元義隆ら血盟団残党に合流し「ひもろぎ塾」を結成、右翼シンパの近衛文麿はテロ犯をまとめて内閣顧問に招聘する。五・一五事件後、テロに怯える西園寺公望と牧野伸顕は東京を離れたが、鈴木貫太郎は暴挙を容認した軍部を決然と非難し、高橋是清蔵相も財政の観点から軍事費抑制の主張を曲げなかった。政権争いに終始し機能不全に陥った政党政治は五・一五事件で命脈を絶たれ、続く斎藤実内閣(海軍)から第二次大戦終結まで「挙国一致内閣」が続くこととなった。五・一五事件の容認に味をしめた軍部や右翼は怖いもの知らずとなり、逆に政治家はテロに屈して抵抗を放棄、暴力が支配する恐怖時代への幕開けとなった。
- 軍部の暴走抑止に努める西園寺公望・牧野伸顕・鈴木貫太郎・斎藤実・高橋是清・木戸幸一・一木喜徳郎ら天皇側近の重臣グループは「君側の奸」と敵視された。陸軍統制派と平沼騏一郎ら右翼は一木喜徳郎・美濃部達吉の「天皇機関説」を槍玉にあげ重臣の排撃を図り、真崎甚三郎・荒木貞夫ら陸軍皇道派は「国体明徴運動」を推進し「日本は万世一系の天皇が統治し給う神国である」という国家観を喧伝、マスコミも便乗したため全体主義・軍国主義が支配的となり言論封殺やテロを容認する空気が醸成された。国体問題が政局化するに至り統制派首領の永田鉄山などは慎重論へ転じたが、岡田啓介内閣の「国体明徴声明」で決着がついた。五・一五事件に怯えた西園寺公望・牧野伸顕は既に別荘に引籠り、一木喜徳郎は右翼の襲撃を受け隠退、過激派の敵意は猶も軍部に抵抗を続ける鈴木貫太郎や高橋是清へ向けられた。なお陸軍では、統制派に締出された皇統派の永田鉄山攻撃が加熱し相沢三郎中佐が永田斬殺事件を起した。皇統派は勢いを増し隊附青年将校グループによる二・二六事件が勃発、斎藤実内大臣・高橋是清蔵相・渡辺錠太郎陸軍教育総監が殺害され、テロを恐れる重臣は完全に腰砕けとなり抑え役を放棄した。リーダーの西園寺公望は首相指名権を重臣会議に譲り隠退、後継者と頼む近衛文麿の内閣が日独伊三国同盟を締結した直後に「これで日本は滅びるだろう。これでお前たちは畳の上では死ねないことになったよ。その覚悟を今からしておけよ」と側近に語り死去した。東京裁判で終身禁固に処された右翼の平沼騏一郎は巣鴨拘置所で重光葵に「日本が今日の様になったのは、大半西園寺公の責任である。老公の怠け心が、遂に少数の財閥の跋扈を来し、政党の暴走を生んだ。これを矯正せんとした勢力は、皆退けられた」と語ったという。終戦まで内大臣に留まった木戸幸一(木戸孝允の継孫)は主戦派の東條英機を首相指名する愚を犯したが、二・二六事件で一命を取り留めた海軍人の岡田啓介・鈴木貫太郎は重臣会議に加わった米内光政と共に東條英機内閣を倒し、鈴木内閣で昭和天皇の「聖断」を引出し第二次大戦の幕引き役を果した。
- 「昭和維新」「尊皇討奸」を掲げる陸軍の隊付青年将校グループが独断専行で帝都駐在部隊1483人を動かし未曾有の武装蜂起事件を起した(二・二六事件)。反乱将校らは皇道派の真崎甚三郎大将を首班とする軍事政権樹立を目指し、帝都要衝の総理大臣官邸・警視庁・陸軍省・参謀本部・東京朝日新聞を武装占拠し「国家改造」を要求、最終目標の皇居占拠・天皇確保は近衛師団に阻まれ断念したが、岡田啓介首相・高橋是清蔵相・斎藤実内大臣・鈴木貫太郎侍従長・渡辺錠太郎陸軍教育総監・牧野伸顕前内大臣を次々と襲撃し高橋・斎藤・渡辺を殺害、岡田首相は側近の身代わりで虎口を逃れ、鈴木は重傷を負うも一命を取留めた。岡田・斎藤・鈴木は海軍条約派・高橋は財政家として軍拡要求に反対し「君側の奸」と憎まれていた。陸軍は大混乱に陥り反乱部隊と気脈を通じる真崎甚三郎・荒木貞夫・本庄繁ら皇道派重鎮と、荒木を「バカ大将」と面罵し断固鎮圧を主張する石原莞爾らの対立があったが、信頼する重臣を殺害された昭和天皇は「反乱」鎮圧を厳命した。3日後の2月29日、敬慕する昭和天皇に朝敵の烙印を押された反乱将校は部隊を解散して兵卒を原隊に復帰させ2人が拳銃自殺し他は全員投降、最終的に反乱将校16人および黒幕とされた民間右翼の北一輝と西田税が死刑に処され、数十人に禁固刑判決が下された。二・二六事件後、茫然自失の岡田啓介首相が退陣し広田弘毅内閣が発足、中立派の寺内寿一を陸相に担いだ石原莞爾が陸軍の綱紀粛正を断行し、皇統派は処罰を免れるも真崎甚三郎・荒木貞夫ら7大将と小畑敏四郎・山下奉文を含む将佐官の悉くが陸軍中央から追放された。日中戦争が始まると武藤章・田中新一ら統制派が不拡大を説く石原莞爾から陸軍の主導権を奪い強硬外交と軍国主義化を牽引、皇統派に憎まれ予備役間近といわれた東條英機も一躍陸軍中枢へ台頭し、テロの脅威が蔓延するなか軍部は再発をちらつかせて強迫姿勢を強め、結果的に二・二六事件は反乱将校が目指した軍事国家樹立への重大な伏線となった。
- 二・二六事件で退陣した岡田啓介に代わり外相の広田弘毅が組閣した。元老の西園寺公望は近衛文麿を推薦したが、陸軍皇道派・青年将校に同情的な近衛に断られ、独占してきた首相指名権を重臣会議に譲り一線を退いた。最難局の後継選びは難航したが、重臣の一木喜徳郎が広田弘毅を推し、賛同した近衛文麿が懇意の吉田茂(広田と同期の外務官僚)を送り承諾させた。右翼結社「玄洋社」に属し出自も悪い広田弘毅の組閣に昭和天皇は難色を示し「名門を崩すことのないように」と異例の訓示を与え、広田は「自分は50年早く生れ過ぎたような気がする」と漏らしたという。外務省傍流ながら野心家の吉田茂は外相を狙ったが、軍部の反対で挫折し駐英大使に回されている。前年に統制派首領の永田鉄山が斬殺され(相沢事件)二・二六事件を起した陸軍は激しく動揺したが、一夕会員ながら両派に属さない石原莞爾が主導権を握り中立派の寺内寿一(長州閥の寺内正毅の嫡子)を広田弘毅内閣の陸相に擁立、軍規粛清を掲げ二・二六事件に関与した真崎甚三郎・荒木貞夫ら七大将を予備役に追込み皇道派の将佐官を陸軍中央から一掃した。その結果、武藤章・田中新一ら「中国一撃論」の統制派が圧倒的優勢となり、予備役編入を噂された東條英機も復活し関東軍参謀長に就任した。さて、昭和天皇と重臣会議に軍部抑制を期待された広田弘毅首相だが、玄洋社右翼の本性を現し軍部の強硬外交を助長、軍部大臣現役武官制の復活・「満州開拓移民推進計画」決定と開拓移民団の派遣・日独防共協定調印・「北守南進政策」の決定・海軍軍縮条約廃棄と、1年に満たない広田弘毅内閣のもと軍国主義化と反米英路線が一気に加速した。第一次近衛文麿で外相に復帰した広田弘毅は再び強硬外交を展開、盧溝橋事件が起ると直ちに増派を決定して日中戦争へ拡大させ、トラウトマンの和解工作を蹴り「蒋介石の国民政府を対手とせず」との第一次近衛声明で日中戦争を泥沼化へ追込み、無謀な「東亜新秩序声明」で英米を敵に回す愚を犯した。
- [戦前史の概観]西南戦争で西郷隆盛が戦死し渦中に木戸孝允が病死、富国強兵・殖産興業を推進した大久保利通の暗殺で「維新の三傑」が全滅すると、明治十四年政変で大隈重信一派が追放され薩長藩閥政府が出現した。首班の伊藤博文は板垣退助ら非薩長・民権派との融和を図り内閣制度・大日本帝国憲法・帝国議会を創設、外交では日清戦争に勝利しつつ国際協調を貫いたが、国防上不可避の日清・日露戦争を通じて軍部が強勢となり山縣有朋の陸軍長州閥が台頭、桂太郎・寺内正毅・田中義一政権は軍拡を推進し台湾・朝鮮に軍政を敷いた。とはいえ、伊藤博文・山縣有朋・井上馨・桂太郎(長州閥)・西郷従道・大山巌・黒田清隆・松方正義(薩摩閥)・西園寺公望(公家)の元老会議が調整機能を果し、伊藤の政友会や大隈重信系政党も有力だった。が、山縣有朋の死を境に陸軍中堅幕僚が蠢動、長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機ら「一夕会」が田中義一・宇垣一成から陸軍を乗取り「中国一激論」と「国家総動員体制」を推進、石原莞爾の満州事変で傀儡国家を樹立し、石原の不拡大論を退けた武藤章が日中戦争を主導、最後は対米強硬の田中新一が米中二正面作戦の愚を犯した。一方の海軍は、海軍創始者の山本権兵衛がシーメンス事件で退いた後、「統帥権干犯」を機に東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王の二大長老を担いだ加藤寛治・末次信正ら反米軍拡派(艦隊派)が主流となり、国際協調を説く知米派の加藤友三郎・米内光政・山本五十六・井上成美らを退けた。「最後の元老」西園寺公望ら天皇側近は右傾化の抑止に努めたが、五・一五事件、二・二六事件と続く軍部のテロで(鈴木貫太郎を除き)腰砕けとなり、木戸孝一に至っては主戦派の東條英機を首相に指名した。党派対立に明け暮れ軍部とも結託した政党政治は、原敬暗殺、濱口雄幸襲撃を経て五・一五事件で命脈を絶たれ、大政翼賛会に吸収された。そして「亡国の宰相」近衛文麿が登場、軍部さえ逡巡するなかマスコミと世論に迎合して日中戦争を引起し、泥沼に嵌って国家総動員法・大政翼賛会で軍国主義化を完成、日独伊三国同盟・南部仏印進駐を断行し亡国の対米開戦へ引きずり込まれた。
高橋是清と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照