裸一貫から英語を武器に日銀総裁、蔵相、首相に出世、日露戦費調達、金融恐慌沈静化とデフレ退治を果したが、二・二六事件で波乱万丈の人生を閉じた本物の「財政の第一人者」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
高橋 是清
1854年 〜 1936年
90点※
家系・子孫
- 高橋是清は、江戸芝中門前町の幕府絵師川村庄右衛門が奉公人きんに生ませた私生児で、生後数日で仙台藩足軽高橋是忠に里子に出され養子となった。その後、生母きんは浜松町の塩物商に嫁ぎ、香子を生んだ後に若死した。高橋是清は後年「ダルマ蔵相」と呼ばれたが、実父もまたでっぷり太っていたという。高橋是清が入嗣した高橋家もまたドラマチックな家筋だった。養父是忠の父是則は元岸和田藩士で土川姓であったが、岸和田に妻子を置いて江戸勤番を勤めるうちに藩主夫人の侍女喜代子と不倫の恋に落ち、家禄と士籍を剥奪された。二人は明日をも知れぬ身となったが、喜代子が奉公に出た旗本高力家で忠勤を認められたことが縁となり、高力家が提供した持参金により仙台藩江戸詰め足軽高橋直右衛門の夫婦養子となった。高橋家に入った是則夫妻は二男一女を授かったが皆早世したため、同僚の堀江氏から是忠を養子に迎えた。高橋是忠は浅草の職人の娘文を妻とし四男二女を生したが男児が皆早世、高橋是清を養子にもらった次第。高橋是清は異父妹の香子を引取り面倒をみたが、香子と同塾の学生だった西郷フジを養祖母喜代子が気に入り是清は妻に迎えた。高橋是清の妻となったフジは是賢を生んだが、夫が未だ世に出ない1884年に病没した。高橋是清は首相退陣後に衆議院議員となったが、華族には被選挙権が無いため出馬に際し嫡子の高橋是賢に子爵を継がせた。高橋是清の次女和喜子は大久保利賢(大久保利通の八男)の妻、ロッキード事件で有罪判決を受け「じいさんにあわせる顔がない」と嘆いた丸紅専務の大久保利春はその子である。高橋是清の孫福子は公爵伊藤博精(伊藤博文の嫡孫)に嫁いでいる。
高橋是清と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
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戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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