1828年 〜 1864年
70点※
有職故実マニアから攘夷運動に入り前時代的な異装で奇人視された福岡浪士、『尊攘英断録』で堂々と討幕を主張し有馬新七や吉村寅太郎を扇動し「大和行幸」に加担するが生野の変に敗れ京都六角獄舎で惨殺
1835年 〜 1867年
土佐藩を脱藩して勝海舟に師事するが神戸海軍操練所の閉鎖に伴い薩摩藩の庇護下に入り亀山社中・薩長同盟に貢献、土佐藩に戻って大政奉還を差配し「世界の海援隊」を夢見たが暗殺された幕末一の人気者
1835年 〜 1924年
薩摩人ながら志士歴が無く伊藤博文の引立てで参議兼大蔵卿に就き「松方財政」でインフレ退治に成功、反動デフレに見舞われたが首相・元老・公爵に栄達し19人の子女と89歳の長寿に恵まれた「財政の第一人者」
1837年 〜 1891年
久坂玄瑞・武市半平太らに担がれ朝廷の「破約攘夷」を牽引した過激公卿、八月十八日政変で「七卿落ち」するが尊攘派志士の大義名分として長州藩の討幕運動を支え明治政府の最高位に栄達
1857年 〜 1929年
内務省の医系技官から児玉源太郎の抜擢で長州閥に連なり、台湾総督民政局長・初代満鉄総裁として植民地経営を成功させ関東大震災後の帝都復興を描いた「大風呂敷」の奇才
1883年 〜 1959年
戦前は政友会幹部として迷走したが、「憲法改正・再軍備・自主外交」を掲げて吉田茂の従米政権を倒し重光葵外相と共に保守合同(55年体制)・日ソ国交回復・国際連合加盟を達成した党人派の親方
1905年 〜 1995年
岸信介の後継者として首相となりカーター米政権の「アジア離れ」を衝いて「全方位外交」を追求、ASEANとの連帯強化と日中平和友好条約締結を果たすも自民党総裁選に弱く僅か2年で退陣
1432年 〜 1486年
60点※
江戸城を拠点に東奔西走し古河公方足利成氏を降して関東管領上杉氏に勝利をもたらしたが(享徳の乱)、下克上を恐れる主君に謀殺された戦国初期関東の最高実力者
1477年 〜 1555年
若狭・丹後・加賀・近江・美濃・京都と命の限り戦い磐石の越前朝倉王国を築いた猛将
1477年 〜 1529年
日明・朝鮮貿易を牛耳って周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸を支配し文化都市山口で栄華を誇った大内氏絶頂期の当主、挙兵上洛して室町幕府を掌握するが尼子経久の台頭で撤退、陶晴賢の謀反で嫡子義隆が滅ぼされ遺領は晴賢を討った毛利元就が奪取