1494年 〜 1556年
60点※
恩人を殺して家名と稲葉山城を乗っ取り、傀儡守護の土岐頼芸まで追放して美濃国盗りを達成したが、最期は嫡子(土岐頼芸落胤説が濃厚)斎藤義龍に討たれた悪逆無道・戦国随一の梟雄
1538年 〜 1616年
徳川家康の謀略を担い天下簒奪に貢献、本多忠勝・大久保忠隣ら武功派を退け初期幕政を握るも加増を固辞し相模玉縄藩1万石に留まるが嫡子本多正純が訓戒に背いて下野宇都宮藩15万5千石への加増を受け将軍徳川秀忠・土井利勝の報復に遭い宇都宮城釣天井事件で改易
1543年 〜 1592年
親鸞・蓮如の血を引く浄土真宗法主にして大坂の戦国大名、各地の一向一揆と石山合戦で織田信長を最も苦しめたが幾万の門徒を虐殺の奈落へ導いた戦う庶民のカリスマ
1544年 〜 1579年
僅かな手勢で美濃稲葉山城を強奪して主君斎藤龍興からの侮辱を雪ぎ、織田信長に転じて豊臣秀吉の与力となり浅井・朝倉攻めや毛利攻めに活躍、婦人の如き相貌に静かな勇気を秘めた天才軍師
1545年 〜 1578年
「七難八苦を授けたまえ」と月に祈り一騎打ちで武名を上げ、3度も尼子再興軍を結成して毛利氏に挑み、最後は織田信長に見捨てられ上月城合戦で敗死した不撓不屈の勇将にして忠君愛国の代名詞
1546年 〜 1586年
鉄砲傭兵集団「雑賀衆」を率いて本願寺顕如を援け石山合戦を指揮したが時流を悟り織田信長・豊臣秀吉に帰順、雑賀衆は滅亡したが後継者の鈴木重朝の子孫が水戸藩重臣として存続
1555年 〜 1612年
中条流の富田勢源の練習台から長大剣を極めた奇形剣士、師の富田景政に勝って越前一条谷を出奔し「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に名を馳せ豊前小倉藩の剣術師範となるが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巖流」は消滅
1556年 〜 1595年
近江日野の名門豪族の嫡子に生れ、六角氏滅亡に伴い織田信長に仕えて娘婿となり本能寺事変後は豊臣秀吉に臣従、武功を重ねて会津92万石に抜擢され伊達政宗の妨害を排して奥州仕置を完遂、徳川家康の抑え役を期待され本人は天下も夢見たが惜しくも40歳で病没した文武両道の大器
1567年 〜 1643年
養父立花道雪亡き後孤軍奮闘で島津氏の猛攻を凌ぎ豊臣秀吉から「西国無双」と激賞され、碧蹄館の戦いで朝鮮役屈指の武勲を挙げたが関ヶ原合戦で西軍に属し改易、放浪生活の末に筑後柳川藩主に返咲いた幸運な勇将
1567年 〜 1615年
父の真田昌幸と共に「上田合戦」を闘い高野山幽閉を脱し大阪陣に見参、孤立無援の「真田丸」で奮闘し徳川家康を切腹寸前まで追詰めた破軍の星