1868年 〜 1852年
60点※
叩き上げの水雷屋から、海軍内部の調整役として斎藤実の後継首相となったが二・二六事件で退陣、大戦の最終局面で東條英機内閣打倒に動いた終戦の功労者
1870年 〜 1931年
大蔵官僚から政党政治家に転身、民政党総裁として首相に上り詰め金解禁と軍縮に取組むが、凶弾に斃れた「ライオン宰相」
1848年 〜 1913年
50点※
叔父のお陰で長州閥首脳に取り入り、日露戦争勝利の栄誉に恵まれた山縣有朋の側近
1858年 〜 1936年
仁礼景範の娘婿として薩摩海軍閥に連なり、山本権兵衛の下で海軍次官・海相を長く勤め首相に上り詰めた後、二・二六事件で殺害された「山本権兵衛の副官」
1880年 〜 1948年
第一次近衛文麿内閣の海相として日中戦争拡大に加担したが、日独伊三国同盟・対米開戦には断固反対し東条内閣打倒と終戦工作に働いた海軍良識派のリーダー
1842年 〜 1900年
40点※
「維新の三傑」の政争に翻弄され西南戦争後は酒乱となり、開拓使官有物払下げ事件に逆ギレして「超然主義」を唱え民権派と三菱を弾圧、順送りで2代首相・元老に栄達したが政治的業績を残せなかった孤独な薩摩閥のボス
1848年 〜 1934年
薩摩閥海軍人として山本権兵衛海相に連合艦隊司令長官に抜擢され日露戦争の英雄となったが、軍拡反米英の「艦隊派」に肩入れし晩節を汚した「海軍の神様」
1849年 〜 1940年
岩倉具視の引きで公家政治家となり、伊藤博文の後継として軍部の暴走抑止に努めたが、最後はテロに屈した昭和のキングメーカー
1855年 〜 1932年
慶應義塾グループ・大隈重信派の「バルカン政治屋」として台頭、中継ぎの政友会総裁となり首相に上り詰めたが、五・一五事件に斃れた政党政治の生き字引
1884年 〜 1943年
米内光政・井上成美と海軍「良識派」を組み日独伊三国同盟・対米開戦に反対したが、開戦が決まると乾坤一擲の真珠湾攻撃に快勝し持論の航空主兵論の正しさを証明、ミッドウェー海戦で躓き茫然自失のまま撃墜死した海軍善玉論の象徴