1850年 〜 1942年
30点※
山縣有朋の子分となり内務官僚・司法大臣として忠勤に励んだ後、楔として貴族院に送込まれ親山縣・反政党の牙城を築いた出世人
1852年 〜 1919年
陸軍長州閥に属し山縣有朋の子分というだけで首相に上り詰め、シベリア出兵と米騒動を巻き起し、藩閥専横と超然主義の限界を身を持って示したビリケン宰相
1856年 〜 1921年
結婚で長州閥に食込み、首相に上り詰めて「初の本格的政党内閣」を実現したが、政党政治の限界を示す役割を演じた虚構の平民宰相
1864年 〜 1929年
陸軍長州閥の領袖ながら政友会総裁に納まって首相に上り詰めたが、張作霖爆殺事件で昭和天皇と陸軍中堅幕僚の板挟みとなった「おらが首相」
1866年 〜 1944年
桂太郎側近の大蔵官僚として蔵相となり、桂新党を承継して憲政会総裁、首相に上り詰めたが、満州事変にお墨付き与える大失策を犯した元祖官僚政治家
1867年 〜 1952年
検察のドンの立場で軍部に加担し左翼と政党を排撃、念願の首相に上り詰めたが独ソ不可侵条約に遭遇し「欧州情勢は複雑怪奇」の言葉を残して退陣した観念右翼の総帥
1876年 〜 1943年
永田鉄山・石原莞爾の傀儡として陸相・首相に担がれ、朝鮮軍の越境出動で満州事変を成功に導いた陸軍統制派のロボット
1892年 〜 1948年
石原莞爾を失脚させ日中戦争拡大・日独伊三国同盟を主導、「中国一激論」が挫折し日中講和へ転じたが田中進一らの強硬論を覆せず、対米開戦に反対し東條英機内閣打倒に動くも東京裁判で死刑に処された陸軍統制派のリーダー
1838年 〜 1922年
20点※
「対外硬」と口八丁で参議に出世、自滅するも政党政治家として首相となり、脱亜論に乗せられて対華21カ条要求をしでかした「反日」の元凶
1860年 〜 1926年
外務官僚から外相を歴任し対華21カ条要求等の対外硬路線を主導、岩崎弥太郎の女婿故に政界で重宝がられ、桂太郎の同志会を承継し首相となった三菱のシンデレラ