魏志倭人伝の奴国の時代より博多は大陸に開かれた玄関口、今も「那の津」の地名が残る。大宰府の外交港(筑紫館・鴻臚館)から日宋貿易の商業港へ装いを変え、平家の栄枯盛衰、元寇、南北朝動乱、応仁の乱と相次ぐ戦乱で要港博多は戦火に見舞われるが、周防大内氏のもと明鮮貿易で繁盛し堺と並ぶ貿易都市へ発展、また博多商人 神屋寿貞(宗湛の祖父)が興した石見銀山は戦国争乱に油を注いだ。ドル箱の博多は大内氏・大友氏・毛利氏・島津氏の争奪戦に見舞われ荒廃するが、九州征伐を果した豊臣秀吉・奉行石田三成が朝鮮出兵に備えて博多復興を敢行し現在に至る町割りを形成。徳川幕府の鎖国で貿易港の地位を失うも、博多は筑前福岡藩47万石の商業都市として生残り、黒田家の重商政策のもと一定の自治が許され(町奉行-年行事・年寄)城下町「福岡」と異なる町人文化が育まれた(市名は福岡、駅名は博多で妥結)。明治維新に乗遅れた福岡藩士は薩長藩閥打倒を掲げて玄洋社に結束し、大陸派右翼へ変容して広田弘毅の迎軍政策に結実。方や筑豊炭田と官営八幡製鉄所の興隆に伴って北九州工業地帯が形成され、戦後の山陽新幹線開通により福岡市は九州の中核都市へ躍進した。祇園山笠に象徴される町人文化を伝える博多は、日本有数の街遊び観光地となり、玄界灘の海の幸・明太子・屋台・豚骨ラーメン・博多うどん・もつ鍋にナイトスポットまで至れり尽くせり、更に女性人口が多い福岡は独身男性垂涎の転勤地としても名を馳せる。一方、豊前小倉は、小笠原家15万石の城下町から八幡製鉄所の企業城下町へ変貌するが(鮎川義介の戸畑鋳物・日産コンツェルンも小倉発祥)、筑豊炭田と共に衰退し、近年は「ヤクザの町」として悪名高い(遠賀川流域の「川筋者」は全国ヤクザの源流)。しかし小倉駅前には活気溢れる商店街が健在で、筑豊には炭鉱史跡と「炭鉱王」麻生財閥も健在(飯塚は麻生太郎の地盤)。他方、筑後柳川は立花宗茂が興した10万石の城下町、運河と街並みが整備され九州観光の定番となっている。他にも、門司港レトロ、太宰府天満宮、久留米(有馬家21万石の城下町にして田中久重・石橋正二郎の出身地)、筑後吉井(圧巻の白壁土蔵群)、宗像大社(日本全国へ拡散した海人族の源流)、志賀島、秋月城跡など福岡県全域に見所が点在するうえ、他県との交通アクセスも便利、旅設計が自由自在な観光エリアとなっている。
門司港レトロ・門司港駅
私評

下関から関門トンネル人道で歩いて行ける門司港レトロ(唐戸市場前から関門連絡船もあり)。旧門司三井倶楽部・旧門司税関・歩行者専用はね橋などが観光用に整備され、散策には良いが、ハコモノ感がやや寒い。しかし門司港駅のレトロ駅舎はなかなかの名所で、ハリポタを彷彿するホームは必見、近くに九州鉄道記念館もあり。門司港は出光興産の創業地で漁船相手の燃料販売が発端、出光美術館で創業者出光佐三が情熱を注いだ蒐集品を拝見できる。歩きだとややキツイが、門司城跡は毛利氏vs大友氏の古戦場、関門橋の眺めが良い。