高知城跡

四国山脈と太平洋に覆われた土佐国は隠岐・佐渡に次ぐ古の流刑地(配流者は源希義・土御門上皇・尊良親王など)。鎌倉時代に入ると土佐西半は一条家(五摂家の一つ)の荘園となり、応仁の乱を逃れた関白一条教房が中村御所に移住し、子孫は土佐国司の権威を得て戦国大名へ発展。方や土佐守護は阿波を拠点とする管領細川氏が占め、両頭を戴きつつ土豪が勢力争いを繰広げたが(土佐七雄)、父を殺された長宗我部国親が一条氏の支持を得て仇の国人衆を各個撃破。志半ばで陣没するも、嗣子長宗我部元親が一領具足を率いて本山氏・安芸氏を討滅し、暴君一条兼定をも追放して土佐国統一を達成。織田信長と同盟して阿波・讃岐を制するが信長の変節侵攻で一転窮地、が奇跡的に本能寺の変が起り(元親黒幕説が有力)、その混乱に乗じて三好残党と毛利勢を追払い四国制覇を果した。が、豊臣秀吉の四国征伐で土佐一国に押戻され、嗣子長宗我部盛親が関ヶ原で西軍に与しまさかの改易、再起を賭けた大坂陣にも敗れ長宗我部氏は滅亡した。代って土佐20万石を領したのは山内一豊、小山評定で諸侯より先に徳川支持を表明しただけで大加増を受け、徳川に忖度して長宗我部侍を採用せず、浦戸一揆鎮圧で273人を殺戮したうえ桂浜の相撲興行で残党73人を騙し討ち…。長宗我部侍の子孫は郷士となり、幕末に至って土佐勤皇党へ昇華、アル中の山内容堂が勇み足で首領武市半平太を誅殺するも、坂本龍馬・中岡慎太郎ら脱藩浪士の活躍により土佐藩は辛うじて薩長土肥に滑り込んだ。高知市には国宝級の高知城跡とそこそこの繁華街があるが、森林率No1の高知県だけに(何と84%が森)自然観光と南国情緒がテーマとなる。なお、海の幸が豊富に思える高知県だが、実際の特産品は鰹と鯨に尽きる。

私評

推奨

小山評定の活躍?で土佐藩20万石を拝領した山内一豊は、長宗我部元親の居城だった桂浜浦戸城に入るも、街区狭小のため大高坂山へ居を移し高知城を創建…。高知城跡は、三層六階の天守(現存十二天守)に加え懐徳館(本丸御殿)・追手門など15棟もの重文建造物が奇跡的に残り、現存建造物で城郭の全貌を見ることができる唯一無二の重要史跡(何故か国宝に昇格できず)。高知城歴史博物館も必見(龍馬系観光施設ではない本格派の博物館)。

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