対馬・壱岐を介して大陸と繋がる松浦地方は古代より漁業と交易が盛んで、平安時代には渡辺綱の裔を称する松浦氏を領袖に松浦党を形成、松浦氏は同族争いを経つつも戦国時代を生残り、平戸藩6万石(壱岐一国と平戸一帯)を幕末まで承継。各家に根付いた支鮮交易ルートは中央権力にとって有用で、対馬藩の宗氏(10万石格)、福江藩の五島氏(1万余石)も幕末まで家を保っている。方や南方では、ポルトガル交易で台頭した有馬晴純が島原半島を支配し、大村氏を併呑して大村湾・西彼杵・長崎半島まで掌握、大村純忠(晴純実子)が長崎を開港し富強を重ねるも、耕作地・人口が乏しい不利は贖えず佐賀の龍造寺隆信に屈服。が、有馬晴信(純忠甥)が再び反旗を掲げ、大軍で押寄せた龍造寺軍を島津家久の援軍をもって打破り隆信まで討取る大勝利(沖田畷の戦い)。「キリシタン大名」の美名の裏で大村純忠は長崎と領民をイエズス会に売る売国を犯し(ポルトガルで遭遇した日本人奴隷を侮蔑する天正遣欧使節の手記が現存)、屋台骨の長崎を徳川幕府に接収されるも、子孫はキリシタン弾圧に励んで露命を繋ぎ、幕末まで大村藩2万余石を保持。方や有馬晴信は岡本大八事件で死を賜るも、子の直純は家康の養女婿ゆえに家名存続(久留米藩主有馬家とは無関係)。島原の乱を経て、唐津藩と島原藩に抑えの譜代大名が配され、日本唯一の貿易港長崎は幕府直轄、佐賀藩と福岡藩が1年交代で長崎警備役を務める体制が整えられた。長崎代官職を巡る末次平蔵vs村山等安の死闘を経て、幕末に至ると長崎は開国の玄関口として俄然注目を集め、長崎海軍伝習所が興り、トーマス・グラバーら洋商を通じて薩長土肥の志士群が武器輸入に暗躍するが(なお、坂本龍馬の亀山社中は薩摩藩の看板を掲げた長州藩の武器調達会社。方や土佐商会は土佐藩の出先機関で、後に主任岩崎弥太郎が買取り三菱財閥へ発展)、明治維新後すぐに神戸港・横浜港に役割を奪われ御役御免(グラバーも破産)。原爆の惨禍を乗越え、長崎は日本有数の観光都市として異彩を放っている。出島~中華街~オランダ坂~グラバー園~大浦天主堂を巡る散策コースは「町ごと歴史テーマパーク」の感があり、和洋中折衷のユニークな食文化も秀逸(特にちゃんぽん)。さらに稲佐山の夜景、軍艦島・池島クルーズ、浦上平和公園など、長崎観光は交通便利なオプションも多彩。他にも、島原・雲仙温泉、平戸、ハウステンボス、壱岐、対馬など長崎県は様々な観光地を擁し、再々訪れたい旅の定番エリアとなっている。
平戸・平戸城跡
私評

平戸は松浦家6万石の城下町(初代の松浦隆信と『甲子夜話』の松浦静山が有名)。復元天守からの眺望は良好で、オランダ商館、三浦按針墓、松浦史料博物館(中世海賊といえば松浦党…倭寇は濡れ衣)、ザビエル記念教会(石畳が素敵)、王直屋敷(「鉄砲伝来」をアレンジした倭寇頭目)など見所が凝縮。が、2時間程で回れる狭さのうえ食事処も乏しく、足労に見合うかは微妙。行くならヒラメの旬に合せたい。かつての平戸は修学旅行の定番コースだったが、町の衰退が著しく、平戸城天守と両翼を為す町のシンボルで「天皇御用達」を謡った旗松亭も経営破綻し華人が買収…。車旅なら生月大橋、生月島も。