倭寇に悩む明朝が海禁政策を採り、国際貿易の代替拠点として琉球が浮上。海禁・冊封・勘合は一体すなわち琉球王の必要性が生じたことを背景に(明朝は冊封・勘合を与えた王との朝貢・回賜に限って国際交流)、1429年 尚巴志が三山統一して琉球王国創建、那覇港を整備して明・東南アジア・日本を結ぶ中継貿易を促進し、首里城に王朝体制を構築。ただ、明の使節に代官たる立場を示すため、紫禁城へ向けた首里城を極簡素に設え(使節を迎える守禮門のみ豪華に)、福建出身の官僚商人が王朝機構の枢要を担った(→久米三十六姓…現在も親中勢力の基盤か。稲嶺惠一や仲井眞弘多も末裔)。琉球貿易は発展し尚泰久王は「万石津梁の鐘」で繁栄を謳歌したが、後期倭寇(中国人主体)とポルトガル商人の猖獗・明朝の海禁強化に伴って斜陽へ向い、阿麻和利・護佐丸の反乱と鎮圧を経て、1469年 金丸のクーデターで王朝交代(尚円王・第二尚氏王統)。「北虜南倭」で明が衰亡へ向うなか、琉球王家は源為朝の末裔・舜天王統を称して薩摩藩との関係を強め、1609年「琉球侵攻」、貿易の利を残すため琉球王国の体裁は保つも実質的に薩摩藩の支配下に置かれた。密貿易を含む琉球貿易は(調所広郷切腹…)奄美大島のサトウキビと共に雄藩薩摩の土台となり、明治維新後の1872年「琉球処分」で王朝終焉、尚氏は薩長藩主に次ぐ侯爵に叙された。つかの間の平和を経て、太平洋戦争が起ると沖縄は台湾と共に矢面に立たされ、1945年伊江島から米軍が上陸し沖縄戦勃発。軍艦1300・飛行機1700・上陸兵18万の米軍に対し肉弾10万で挑む日本軍は沖縄男性2.5万名に600名の女学生まで徴用(ひめゆり部隊など)、57万県民の2割が虐殺される最悪の結果となった。吉田茂の敗戦処理政府は駐留米軍基地の恒久利用と膨大な基地負担額を受忍し、講和発効から20年遅れの1972年ようやく沖縄返還が実現するが、基地問題(=日本の主権回復・自主防衛)は未だ解決に至らず。さらに沖縄県は教育・産業・所得の水準がなかなか本土並みにならず(中国皇帝-代官王-無文字社会支配の冊封体制から産業国へ進化した韓国が参考になるかも)、それが政治の左傾・親中化を促す悪循環、助成金依存経済脱却の糸口すら見えない(これは他府県も五十歩百歩だが、象徴的かと)。とはいえ、沖縄は常夏の楽園にして国民的オアシス、戦中戦後の贖罪のためにも足繁く訪れて金を落したい。全島観光地化した沖縄にはリゾートホテルが林立し予算と用途に応じて選び放題、美ら海水族館、琉球村、美浜アメリカンビレッジ、Tギャラリア 沖縄、那覇市街、おきなわワールドなど観光施設も各地に揃う。率直に言って食事が大問題だが、ホテル飯+良店開拓でカバー可能。近年の離島ブームを追い風に石垣島、宮古島、武富島などの観光開発も進んでいる(中国系資本は大問題だが)。
那覇港
私評

尚巴志の建国以来、那覇港における中継貿易が琉球王国の基盤。辻遊廓跡は風俗街へ転じ栄華の名残を留める。久米は 福建出身の官僚商人「久米三十六姓」の集住地で、明使節宿舎「天使館」の側に設けられたもの。いま中国人街の残滓は無いが、媽祖の遺構が天妃小学校にある。また、久米にある「福州園」は1992年に福州市との友好都市締結10周年および那覇市制70周年を記念して建てられた中国式庭園(恐るべし…)。方や海辺の崖上に立つ波上宮は数少ない沖縄の神社で「琉球国新一の宮」に認定、波の上ビーチと合せて観光PR中。