鞆の浦・仙酔島

山陽本線開通まで山陽の中心は瀬戸内海。航路と塩田の発達に伴って鞆の浦・三原・芸予諸島各地に港町が開け、平清盛による音戸の瀬戸の開削・厳島神社の大普請を機に宮島は「安芸の商都」へ発展。一方で帆別銭システム(私営関所の通行料)を創出した村上水軍が「海賊大名」へ成長し、毛利水軍の主力を担って厳島・木津川口の戦いで活躍するが、秀吉の海賊停止令で終焉(末端構成員が海上生活民 家船のルーツとも)。方や陸上では、安芸国には分郡守護武田氏(甲斐→若狭武田氏の分家)、備後国には守護山名氏があるも、統率力を欠いて周防大内氏vs出雲尼子氏の草刈り場となり、安芸国吉田の小土豪から伸上った毛利元就が厳島の戦いで陶晴賢を討って大内領を奪い(防長計略)、さらに尼子氏も降して中国10ヵ国を制覇。が、孫の毛利輝元が関ヶ原の戦いで自滅し防長37万石へ減転封、福島正則の改易を経て、高台院の義甥で徳川家康女婿の浅野長晟が芸州藩広島城42万石の太守に納まった。方や備後国では、徳川家の異端児 水野勝成が福山藩10万石を興し、後に阿部氏に代って幕末の老中阿部正弘が輩出。明治維新後に鎮台・師団が置かれた広島は軍事都市の様相を強め、日清戦争では広島城に大本営設置、方や呉は横須賀と並ぶ軍港都市へ発展し戦艦大和も建造したが、原爆と終戦で壊滅。が、『仁義なき戦い』の混乱期を経て、広島カープを励みに県民は早期復興を成し遂げた。歴史が豊富で風光明媚な瀬戸内には全域に渡って個性溢れる観光地が林立、鞆の浦、尾道、しまなみ海道、竹原、とびしま海道・御手洗、呉・音戸の瀬戸、江田島海軍兵学校、広島、宮島…この豪華布陣に自然美・食文化も豊富と来るので、文句無しの観光県と言えるだろう。

私評

定番

鞆の浦は万葉集以来の港町で日本史頻出の重要史跡だが、常夜燈・雁木・波止場・常国寺(足利義昭在所・「鞆幕府」の痕跡)に若干の街並みが残るだけで、人気先行の感が否めない。坂本龍馬に因む「いろは丸」で渡る仙酔島はなかなかの景勝地。旅館「ここから」はユニークな蒸風呂施設を備え(少し石油臭いが)魚も美味い。

詳細

この場所に関係のある人物

鞆の浦・仙酔島